国分寺(読み)こくぶんじ

精選版 日本国語大辞典 「国分寺」の意味・読み・例文・類語

こくぶん‐じ【国分寺】

[1] 〘名〙 聖武天皇が天平一三年(七四一)三月二四日詔して、諸国に造営させた官寺(「続日本紀」が天平一三年とするのは天平一〇年の誤りとする辻善之助の説がある)。僧寺と尼寺とがあり、通常は僧寺(金光明四天王護国之寺)を指すが、広義には国分尼寺(法華滅罪之寺)をも含めていう。国分寺創建は四天王が来て護国にあたる趣旨の金光明最勝王経の信仰に基づく事業であったが、精神界を国家的に統一する目的もあった。創建当時の建築で残っているものはないが、遺跡は全国に散在する。こくぶじ。
※続日本紀‐天平一三年(741)正月丁酉「三千戸施入諸国国分寺、以充丈六仏像之料
[2]
[一] 東京都のほぼ中部、武蔵野台地にある地名。武蔵国国分寺があった。礎石が史跡として残っている。第二次大戦後、東京のベッドタウンとして都市化が進んだ。昭和三九年(一九六四)市制。
[二] 栃木県南部の地名。下野国国分寺・国分尼寺があった。かんぴょう、桑苗の産地。

こくぶ‐じ【国分寺】

[1] 〘名〙 =こくぶんじ(国分寺)(一)〔日葡辞書(1603‐04)〕
[2]
[一] 高知県南国市国分にある真言宗智山派の寺。山号は摩尼山。天平一三年(七四一)聖武天皇の勅願により創建された国分寺の一つ。紀貫之ゆかりの寺として知られる。四国八十八所の第二九番札所。
[二] 香川県綾歌郡国分寺町にある真言宗御室派の寺。山号は白牛山。天平九年(七三七)行基の草創とも、同一三年天武天皇の詔により建立された国分寺の一つともいう。四国八十八所の第八〇番札所。国分の観音。

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デジタル大辞泉 「国分寺」の意味・読み・例文・類語

こくぶん‐じ【国分寺】

天平13年(741)聖武天皇の勅願により、国分尼寺とともに国ごとに建立された官寺。正式には金光明四天王護国之寺という。国内の僧尼の監督に当たり、また朝廷の特別の保護があった。奈良の東大寺を総国分寺とする。こくぶじ。

こくぶんじ【国分寺】[地名]

東京都中部の市。住宅地として発展。武蔵国国分寺跡がある。市街地には湧水と清流が残っている。人口12.1万(2010)。

こくぶ‐じ【国分寺】

こくぶんじ(国分寺)

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日本歴史地名大系 「国分寺」の解説

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]南国市国分

香長かちよう平野中央北部、土佐国府跡の南西にある。摩尼山宝蔵院と号し、真言宗智山派、本尊千手観音。四国霊場八十八ヵ所の二九番札所で、御詠歌は「国を分けたからを積みて建つ寺の末の世までの利益残せり」。なお寺域は「土佐国分寺跡」として国指定史跡。

天平一一年(七三九)行基によって創建されたと伝える。「土佐州郡志」は「洛陽醍醐報恩院末、天平九丁丑年聖武天皇使行基而創建、有千手観音堂行基之所刻・大師堂・大地蔵堂・護摩堂・十王堂・二王門・聖武天皇祠・山王権現社・大明神社旧在比江国分界隴上、後移今地、又有僧舎中之坊・北之坊・西之坊・別当坊」と記す。天平九年説も同一一年説も、行基創建の伝えとともに確実な史料があるわけではなく、聖武天皇による国分寺建立の詔勅が出されたのは同一三年である(続日本紀)。「続日本紀」天平勝宝八年(七五六)一二月二〇日条に、土佐など二六ヵ国に「国別頒下灌頂幡一具、道場幡九首、緋綱二条、以宛周忌御斎荘餝、用了収置金光明寺、永為寺物、随事出用之」と記されるので、国分寺建立の詔が出て以後に建立されたことは確かである。現在、寺の東南部に創建当初の高さ一・五―二メートル、幅三―四メートルの土塁や、奈良時代の塔の心礎として凹凹座心礎が残る。空海が修造したとの寺伝があり、平安時代は国府とともに文化の中心として寺院は隆盛、「延喜式」(主税上)の「諸国出挙公廨雑稲」に、土佐国の「国分寺料一万束」がみえる。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]徳島市国府町矢野

国府町矢野こくふちようやのの南西山裾にある。法養山と号し、曹洞宗。本尊は薬師如来。四国霊場八十八ヵ所の第一五番札所。御詠歌は「うすく濃わけわけ色をそめぬれば流転生死のあきのもみぢ葉」。天平一三年(七四一)に発布された、国ごとに金光明四天王護国之寺の建立を命じた詔(「続日本紀」天平一三年三月二四日条など)により建立された阿波国の国分僧寺を前身とする。創建の時期は不明だが、天平勝宝八歳(七五六)一二月二〇日に阿波国をはじめ二六ヵ国に配分された灌頂幡一具・道場幡四九具・緋綱二条は、周忌御斎荘餝に充てられたのち各国の金光明寺に納め寺物とされていることから(同書)、この頃にはすでに建立されていたとみられる。「延喜式」主税上によれば、一万四千束が国分寺料に充てられていた。平安時代以降国分僧寺に対する国からの保護もなくなって寺勢は急速に衰えたとみられるが、その経過についての詳細は知ることができない。

中世の国分寺については不明だが、阿州三好記大状前書(徴古雑抄)にみえる「金寺」が当寺をさすと考えられ、寺領は七貫文、阿州三好記並寺立屋敷割次第(同書)によると方丈・庫裏・取次・鐘撞堂・土蔵・薬師堂・下坊主部屋・半座敷・表門・裏門があり、寺立は東向き、屋敷一町五反余とある。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]上越市五智三丁目

居多こた神社の鳥居前にあり、五智ごち国分寺ともいう。山門(仁王門)を入ると正面に本堂、右に三重塔(県指定文化財)竹の内たけのうち草庵・親鸞上人石像、左に経蔵・芭蕉句碑・墓地などがある。安国山華蔵院と号し、天台宗。本尊は丈六の五智如来(大日・釈迦・宝生・薬師・弥陀の五躯)。聖武天皇の詔により建立された越後国分寺(「延喜式」によると寺料二万束)の寺基を継ぐと伝えるが、当初の寺地は不明。現在地に移建したのは上杉謙信で、時期は永禄五年(一五六二)と伝える。

中世には走湯山そうとうざん(現静岡県熱海市伊豆山神社)の所領の一で、年未詳走湯山所領目録(醍醐寺文書)に「越後国分寺 嘉禄三 二 十二 御下文」とあり、嘉禄三年(一二二七)二月一二日の藤原頼経袖判下文(尊経閣文庫所蔵武家手鑑)に「下 越後房覚意」「可早安堵所職所帯等事」として「密厳院下御所地安坊堂本尊・聖教・道具」などとともに越後国分寺があげられ、「但当寺事、良善法眼譲中納言律師、而又悔返譲覚与法眼、覚与譲覚意、可任其状矣」とある。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]打田町東国分

紀ノ川北岸の緩斜面の中央部、春日かすが川がつくる小規模な河岸段丘上に位置し、奈良時代に建立された紀伊国分寺の寺跡を継ぐ。新義真言宗で八光山医王院と号し、本尊薬師如来。紀伊国分寺は、「続日本紀」天平勝宝八年(七五六)一二月二〇日条に、紀伊国など二六ヵ国の金光明こんこうみよう(国分寺)に灌頂幡・道場幡・緋綱を頒下したとあり、同年には寺院としての景観を整えていたものと考えられる。「三代実録」元慶三年(八七九)二月二二日条に「紀伊国金光明寺火、堂塔房舎悉成灰燼」とあり、このとき火災にあったことが知られる。しかしその後すぐに復興したものと考えられ、「延喜式」主税寮には「紀伊国正税 国分寺料二万束」とある。大治二年(一一二七)八月一七日の紀伊国在庁官人等解案(林家文書)に「国分寺仏聖灯油修理料稲并僧尼布施等、使補近辺之便宜田畠」、長承元年(一一三二)一一月一三日の岡田荘立券文案(根来要書)岡田おかだ(現和歌山県岩出町)の四至を記して「限北国分寺堺」とあり、平安時代後期まではその存在が確認できる。

しかし中世に入ると文献にその名は現れない。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]国分寺町国分

国分こくぶ台丘陵の南、蓮光寺れんこうじ山の東麓に位置する。真言宗御室派、白牛山千手院と号し、本尊は木造千手観音立像(国指定重要文化財)。四国霊場八十八ヵ所の第八〇番札所。御詠歌は「国をわけ野山をしのぎ寺々にまいれる人をたすけましませ」。

天平一三年(七四一)三月二四日の聖武天皇の国分寺建立の詔(続日本紀)により、讃岐国府(現坂出市府中)より二キロ西方の当地に建立された。「続日本紀」天平勝宝八年(七五六)一二月二〇日条によれば、讃岐国など二六ヵ国の国分寺に灌頂幡一具・道場幡四九具・緋綱二条などが頒布されており、周忌御斎の飾りとして用いた後は国分寺に収め置くよう命じているので、この時までには寺観が整っていたようである。天平一三年の詔により国分寺には食封五〇戸・水田一〇町が与えられ、讃岐国分寺料四万束が給されていた(弘仁式)

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]海老名市国分

相模川左岸用水と目久尻めくじり川に挟まれた標高約四〇メートルの台地上にある。東光山医王院と号し、高野山真言宗。本尊は薬師如来立像。左右に日光・月光二像および十二神将を置く。

天平一三年(七四一)の聖武天皇発願により、国ごとに国分尼寺とともに建立された寺の一つ。当寺は、他の国の国分寺と異なり、飛鳥時代の法隆寺式の伽藍配置で、白鳳期様式の瓦が出土すること、武蔵国分寺と異なり、郡名・郷名を刻印した瓦の出土が皆無であることなどから、すでに創建されていた土豪(壬生氏か)の氏寺に、七重塔一基と一丈六尺の釈迦仏金像を追加し、国分寺の寺格を満たしたものと推定される。

弘仁一〇年(八一九)二月一九日と八月二九日の二度にわたり火災にみまわれている(類聚国史)。「三代実録」元慶二年(八七八)九月二九日条によれば、相模・武蔵を中心とした関東地方に大地震が起き、同書同五年一〇月三日条によれば「国分寺金色薬師丈六像一体、挟侍菩薩像二体」が破壊され、その直後の失火により焼損した。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]真野町国分寺

竹田たけだ台地先端部にあり、北方低湿地に竹田沖と称される水田が広がり、条里遺構がみられる。真言宗醍醐派、医王山と号し、本尊薬師如来。現在の伽藍は江戸期の再建で、旧寺地は西方の字きようみねの松林の中にある。創建年次について、天平宝字八年(七六四)八月二二日奉写御執経所請経文(正倉院文書)によれば、この年「佐土国々分寺」に対し最勝王経・法華経各一部が施納されており、落慶のための施納と考えられ、この頃とする説が有力である。なお「続日本紀」神護景雲二年(七六八)三月一日条に北陸道使豊野真人出雲が、従来越後国から支弁していた「佐渡国造国分寺料稲一万束」をとどめ、佐渡国の田租を割いて用度に充てることを申請している。これは越後国司が越後・佐渡の国分寺料を支出する慣例があったことを示す。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]厳原町天道茂

天道茂てんどうしげの奥の扇原おうぎばるにある。天徳山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。対馬の古代島分寺を文明年間(一四六九―八七)に再興、国分寺と号したもので、天和三年(一六八三)現在地に移るまで、今屋敷の金石いまやしきのかねいし日吉ひよしと移転した。天和二年の朝鮮通信使以来(ほかは正徳元年・享保四年・寛延元年・明和元年・文化八年)、国分寺がその客館とされる慣例となり、公費で造営されたもので、文化四年(一八〇七)本殿を改築、八脚門を建てた際も幕府から金五万両を受けた。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]防府市国分寺町

多々良たたら山の南麓、旧周防国府の地の西北隅の道路を隔てて南面し、仁王門・金堂・庫裏が建つ。高野山真言宗で、浄瑠璃山と号し、本尊薬師如来。

天平一三年(七四一)聖武天皇の発願により諸国に設けられた僧寺で、当時の正称は金光明四天王護国之寺こんこうみようしてんのうごこくのてら周防国分寺の完成年代は明らかでないが、当時の伽藍配置は、昭和二八年(一九五三)から同三〇年にかけて五次にわたる発掘調査が行われた結果、金堂跡のほか塔跡・南門跡・中門跡・回廊跡および裏門跡が確認され、周防国分寺旧境内として国の史跡に指定された(「周防国分寺旧境内」山口県の文化財・山口県教育委員会・一九六八年)

伽藍は金堂を中心とする四つ割の配置で、旧金堂跡は現在の境内のほぼ中央、現金堂の地に位置する。現在の金堂(県指定有形文化財)は天明七年(一七八七)に毛利重就が重建したもので、その規模は二段の土壇の上に間口二二・〇六メートル、奥行一五・二七メートル、礎石には旧礎石を割ったものや火災をうけたものがある。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]和泉市国分町

槙尾まきお川とその支流ハトコ川に東西を挟まれた標高九〇メートルほどの段丘上にある。本尊薬師如来、高野山真言宗。通称福徳ふくとく寺。旧称を安楽あんらく寺といい、承和六年(八三九)五月和泉国国分寺に指定された。すなわち「続日本後紀」同月三日条に「以和泉郡安楽寺、為国分寺、置講師一員、僧十口、但不読師」とみえる。他の多くの国分寺とは異なり、従来からあった寺院が国分寺とされたものである。国分寺料は五千束(「延喜式」主税)。なお国分尼寺は設けられていない。国分寺とされて以後の当寺のことは、年月日未詳の兼貞珍光時論田勘注案(近衛家本「知信記」天治二年至五年巻裏文書)に引かれる、嘉承元年(一一〇六)六月二二日の珍為光申文、天仁二年(一一〇九)三月一七日の珍為光申文などに国分寺領のことがみえるのみで不明である。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]東広島市西条町吉行 伽藍

竜王りゆうおう山南麓に南面してある。金嶽山常光院と号し、真言宗御室派。本尊薬師如来。天平一三年(七四一)聖武天皇の発願で諸国に国分寺が建立されたが、安芸国分寺は「弘仁式」「延喜式」に寺料三万束とある。天徳二年(九五八)八月一三日の安芸国牒(朝野群載)に安芸国分寺の寺僧勝誓の死後、尊住が継いだことがみえる。福成寺縁起(同寺蔵)によれば、平家を追って西下した源範頼と国分寺にこもった平家方野武士との合戦で全焼したというが、「国郡志下調書出帳」所収の弘安六年(一二八三)国分寺縁記には焼失の記事がない。また毛利輝元が三〇〇貫の寺領を与えたと伝えるが(国分寺田禄記「国郡志下調書出帳」所収)、毛利氏八箇国時代分限帳(山口県文書館蔵)にみえる寺領は三〇石余である。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]市川市国分三丁目

寺地は古代の下総国分寺(僧寺)の伽藍跡を占め、同寺の寺基を継承する寺院といわれる。国分山と号し、真言宗豊山派。本尊は薬師如来。かつては金光明こんこうみよう寺と号していた。建久年間(一一九〇―九九)の香取社の遷宮用途注進状(香取文書)に「国分寺六十斛 造進所課也」とあり、寛元元年(一二四三)には同社馬庭埒の造営が「国分寺役」とされている(一一月一一日「造宮所役注文写」同文書)

国分寺
こくぶんじ

静岡平野中心部にあった中世の寺院。天平一三年(七四一)聖武天皇の発願により、諸国に国分寺・国分尼寺が建立されていく。駿河国分寺を片山かたやま廃寺に比定する説もあるが、いまだ確定されていない。中世には安東あんどうの地に国分寺が存在し、府中の西に所在する菩提樹ぼだいじゆ院が国分尼寺に擬せられているが、古代の両寺との法統関係は明らかでない。仁治三年(一二四二)建穂たきよう寺明賢などが「惣社并国分寺別当金剛仏子憲信」を願主として大般若経を書写し、「尼寺御堂」(国分尼寺か)に施入している(久能寺旧蔵「大般若経巻一奥書」宮内庁書陵部蔵)

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]今治市国分

国分寺山麓の字亀山にあり、付近は三方を山に囲まれたなだらかな丘陵で標高約一〇・五メートルである。復元された条里では桜井さくらい郷半田里の八坪にあたる。国府跡から東南二キロ、また国分尼寺跡と推定される桜井小学校は国分寺の東南一キロにある。金光山最勝院と号し、四国八十八ヵ所の五九番札所で別格本山、本尊は薬師如来である。初め華厳宗であったがのち真言律宗に転じた。

天平一三年(七四一)、聖武天皇発願による創建で、寺伝によると本性が奈良より下向し、国司とともに寺域を定めて建造に取りかかり、自ら開基となったとある。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]上田市大字国分

千曲川の北岸でかん川が合流する西側にある。信濃国分寺跡と、現在、天台宗比叡山延暦寺末の国分寺がある。

現在の国分寺は、国指定史跡となった信濃国分寺史跡のうち、僧寺跡北方およそ二〇〇メートルの一段高い台地にある。移転の年代は不明であるが、境内の石造多宝塔が鎌倉時代の豪健な作風をもつことや、寺伝に三重塔(重要文化財)が建久八年(一一九七)国分寺修営の時建立された、と伝えるなどから考えると、平安時代に移転されたものであろう。

本堂は薬師堂、または八日堂とよばれる。本尊は薬師如来。諸国の国分寺の本尊が釈迦如来とされるのに、現在の国分寺本尊が薬師如来であるのは、平安中期より、国分寺の経営が不振となり、衰退朽損が激しく、当時の仏教思想の潮流に従い、薬師如来を本尊仏としたものと推定される(上田市史)

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]神辺町下御領

下御領しもごりよう集落北側のあまり高くない山並が神辺平野に接するところに南面して建つ。北側後背地には奈良期に近い群集古墳が分布、南には条里制の実施された神辺平野が広がり、前を古代山陽道が東西に走る。山号唐尾山、真言宗大覚寺派。本尊薬師如来。

奈良時代に創建され、「延喜式」に「備後国国分寺料二万束」とみえる備後国分寺(僧寺)を継承する寺とされ、境内地を含んでその寺跡がある。享保元年(一七一六)成立の国分寺来由記(「備陽六郡志」所引)に、古くは所領一〇〇余貫、子院が一二あったが、永禄四年(一五六一)春兵火に遭い、神辺城主杉原盛重が寄付をつのり草堂七楹を建て、二〇貫の地を寄進した。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]高山市総和町

安川やすかわ通から西に続く国分寺通の北側にある。高野山真言宗。医王山と号し、本尊薬師如来。飛騨国分寺の寺基を継ぐとされ、昭和二九年(一九五四)本堂の解体修理にともない基壇の一部や礎石が検出された。天正一三年(一五八五)金森長近が松倉まつくら城の三木氏を攻撃した際兵火を被ったと伝え、天正年中に金森氏が千光せんこう(現大野郡丹生川村)の玄海を中興として再興したという(「飛州志」ほか)

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]大淀区国分寺一丁目

北区との境近くに位置する。真言宗国分寺派、山号護国山、本尊薬師如来。金剛院と号する。寺伝によると斉明天皇の時代に日本法相宗の祖道昭が勅を奉じ、先帝孝徳天皇の菩提のため長柄豊碕ながらとよさき宮の旧跡に一宇を建立して長柄寺と称したことに始まり、天平一三年(七四一)二月一四日聖武天皇の国分寺創建の発願により(類聚三代格)、長柄寺を改称し「金光明四天王護国之寺」になったという。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]芦辺町中野郷

西触にしふれにある。護国山と号し、臨済宗大徳寺派。本尊は釈迦如来。古代の諸国国分寺の一つ壱岐国分寺の法灯を継ぐもので、島分寺とも号した。寛文二年(一六六二)平戸藩主松浦鎮信は釈迦堂のみの国分寺を再興すべく白銀一〇〇枚を施入、また松浦半左衛門は寺田一〇石を寄進しており、平戸の普門ふもん寺の暗宗を招いて再興開山としたという(壱岐国続風土記)。暗宗の没後は那賀郷なかのごうの阿弥陀寺住職の兼帯所となっていた。享保五年(一七二〇)平戸藩主松浦篤信は京都大徳寺の興宗を請待開山とし、また同八年に国分寺の由緒、すなわち「任上古一国一寺之旧規、改之為一本寺」として、深江の安国ふかえのあんこく寺末のうち阿弥陀寺・三明さんみよう院・桂林けいりん院など六ヵ寺を国分寺の末寺とするよう命じている(「末寺配当状」壱岐名勝図誌)

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]久留米市宮ノ陣五丁目

筑後川中流右岸にある。天台宗。護国山。本尊は聖観音。筑後国国分寺跡は現国分こくぶ町で発掘調査が行われているが、現国分寺は古代の国分寺廃絶後、中世のある時期に移転・再興されたものと考えられる(太宰管内志)。「校訂筑後志」は寺産一五町を付けて足利尊氏が再興したという。慶長年間(一五九六―一六一五)筑後国主田中吉政が再興、安永七年(一七七八)久留米藩七代藩主有馬頼が筑後三十三観音の第一一番札所と定めた(同書)。明治二年(一八六九)藩命により高良山明静みようじよう院住持霊徹が当寺に移った。山門前の石仁王像・元三大師・大聖歓喜天もこのとき明静院から移され、元三大師・歓喜天は今も厚い信仰を集める。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]稲沢市矢合町 城跡

三宅みやけ川の南にあり、鈴置山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊薬師如来。境内一千四六〇坪。もと円興えんこう寺と号し、円光えんこう寺とともに両円こう寺とよばれた(尾張名所図会)が、明治一九年(一八八六)国分寺と改号した(稲沢市内寺院調)。創建については永和元年(一三七五)大照(尾張志)、または覚山(徇行記)、嘉暦三年(一三二八)柏庵宗意(中島郡社寺古代調書)の三説がある。大照は嘉暦三年に円興寺で剃髪している(妙興寺文書)から、嘉暦三年以前である(稲沢市史)

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]浜田市国分町

国分こくぶ町北東部の丘陵地、字比丘尼所びくにしよに位置。東光山と号し、曹洞宗。本尊薬師如来。嘉永元年(一八四八)竜雲りゆううん(現三隅町)の石瑞崑山が沢津忠左衛門・熊谷三左衛門・石田友右衛門・河野太郎右衛門・谷田古藤吾を発起大願主として再興を図ったのに始まる(谷田家文書)。なお江戸時代初期、市木いちぎ(現瑞穂町)浄泉じようせん寺僧善生の三男善西が無住となっていた国分寺に入ったといい、寛文五年(一六六五)西玄の時に木仏寺号を許可され、金蔵こんぞう(現浄土真宗本願寺派)を号したという。その際古代以来の国分寺伝来とされる仏像・仏具類を境内に薬師堂を建立し安置したとされる。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]国分寺市西元町一丁目

武蔵国分寺跡にある。医王山最勝さいしよう院と号し、真言宗豊山派。本尊は薬師如来。天平一三年(七四一)二月一四日の勅(類聚三代格)により建立された武蔵国分寺の後身とされる。同寺は元弘三年(一三三三)の分倍河原の合戦で焼失、以後衰退したと伝える。真言宗寺院として再興された時期は不明だが、現国分寺所有の経台に弘治二年(一五五六)の年号とともに最勝院の院号が墨書されることから、近世以前から地方寺院として最勝院が存在していたものと思われる。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]亀岡市千歳町国分 桜久保

浄土宗。山号は護国山、本尊は薬師如来(木造坐像、重要文化財)。奈良時代の国分寺の寺名と寺地とを受け継いでおり、その寺跡は国指定史跡。

草創年代は不詳であるが、「延喜式」(主税上)によれば、丹波国の国分寺料として稲四万束があてられている。その後文献上の記載はみられないが、付近から平安後期の軒平瓦が発見され、本尊薬師如来像が藤原様式の仏像である。

中近世の様子も文献を欠き不明であるが、寺伝は天正年間(一五七三―九二)に明智光秀の亀山かめやま城築城の際に焼失し、宝暦年間(一七五一―六四)に護勇が再興したと伝える。しかし所蔵の鰐口に「元禄十四天辛巳十一月吉日 国分寺正円坊寄進」の銘があるので、寺の復興は宝暦年間よりさかのぼるとおもわれる。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]天王寺区国分町

四天王寺の東方にある。黄檗宗、山号天徳山、本尊観世音菩薩。聖武天皇の時に設置された摂津国分寺にあたると伝え、寺域から奈良時代の古瓦が出土する。「延喜式」主税に摂津国分寺料一万五千束とあり、必ずしも当時の状態を伝えるものではないが保安元年(一一二〇)の摂津国正税帳案(九条家冊子本中右記裏文書)にも同様のことを記す。大淀区にも国分寺と称する寺があり、摂津国分寺については両説ある(大淀区の→国分寺。当寺は中世荒廃したが、延宝八年(一六八〇)南源が再興したと伝える(摂津名所図会)

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]橿原市八木二丁目

勝満山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。「大和志」は「延喜式曰国分寺料一万束即此」として大和国分寺に比定される。いわゆる聖武朝の大和国分寺については、平城外京東山の山麓にあった金鐘きんしよう寺がそれで、後年同地に造営された東大寺が引継いだとみるのが一般的で、八木やぎの国分寺の寺名の沿革は、大和国府の所在地とともに詳細は不明。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]総社市上林

備中国分寺跡に建つ。真言宗御室派、日照山と号し本尊は薬師如来。奈良時代に創建された備中国分寺は、出土した土器などから中世初期までは存続が推定されているが、以後は廃寺となった。寺伝によると天正年間(一五七三―九二)高松たかまつ(現岡山市)城主清水宗治の援助によって真言宗寺院として再興されたが衰微し、宝永年間(一七〇四―一一)増鉄が上林かんばやし村領主蒔田定英の援助を受け再建したという。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]武生市京町一丁目

護国山と号し、天台宗。本尊薬師如来。天平一三年(七四一)聖武天皇の発願で全国に建立された国分寺の法灯を継ぐとみられるが明らかではない。慶長三年(一五九八)の長束大蔵府中寺庵中注文(正願寺文書)には「国分寺壱段廿七歩」とみえる。ちなみに越前国国分寺については天平神護二年(七六六)一〇月二一日の越前国司解(東南院文書)に「丹生郡椿原村」のうちとして「国分金光明寺田所注今改正町弐伯陸拾肆歩」とある。

国分寺
こくぶんじ

[現在地名]豊川市八幡町 本郷

三河国分寺跡地にある。永正年中(一五〇四―二一)機外が三河国分寺の旧地に寺を興し、現在は曹洞宗、国府荘山国分寺という。天正六年(一五七八)一〇月八日の岩瀬清助泰民花押のある八幡国分寺寺領目録(国分寺蔵)によると、「八幡国分寺領本所方」として、田畑三貫五八〇文の地がある。目録に記された地名には、一のはし・越谷・はねあ・いかミ・大つか・白鳥・やふ下、などがみえる。

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改訂新版 世界大百科事典 「国分寺」の意味・わかりやすい解説

国分寺 (こくぶんじ)

奈良・平安時代に諸国に置いた官寺。僧寺を金光明(こんこうみよう)四天王護国之寺(金光明寺),尼寺(国分尼寺)を法華滅罪之寺(法華寺)と呼び,合わせて国分二寺という。

 国分寺制は,7世紀末より促進されてきた護国経典の読誦によって国家の安寧を祈る仏教政策の総仕上げであり,中央の大寺で展開した国家仏教の画一的な地方伸展の意義をもつが,直接的には律令体制の根幹をゆるがす疫病,飢饉,反乱などの災いを,《金光明最勝王経(最勝王経)》の鎮護国家の思想で消除しようと図ったものである。国分寺建立の実際の施策は741年(天平13)2月の勅にあるが,その構想につらなる幾つかの前段階が考えられ,国分寺の性格は複合的であった。国分寺建立の第1段階は737年3月,諸国に釈迦三尊像1体の造立と《大般若経(だいはんにやきよう)》1部の書写を命じたことに始まり,ついで740年6月,諸国に《法華経》10部の書写ならびに七重塔1区の建立を令し,同年9月には観音像1体の造立と《観音経》10巻の書写を行わしめた。こうしてしだいに構想が整い,741年2月諸国に,七重塔1区造建と《最勝王経》《法華経》各10部書写を重ねて命令し,それとは別に天皇の書写した金字の《最勝王経》を塔の中に納めさせ,かつ僧寺・尼寺の名称を〈金光明四天王護国之寺〉〈法華滅罪之寺〉とし,僧寺には封戸(ふこ)50戸・水田10町,尼寺には水田10町の寺領を施入し,僧20人,尼10人を置くことなどの条例,および願文(がんもん)等を制定した。国分二寺の造営は,どちらかといえば,尼寺の法華寺よりも,〈国華〉たる七重塔を造るべき僧寺の金光明寺に重点が置かれ,したがって単に国分寺という場合はこの金光明寺を指すことが多い。

 国分寺の造営は,744年国ごとに正税(しようぜい)4万束を割き取り,これを毎年出挙(すいこ)して造寺用にあてる財政上の措置が講じられてより本格化するが,一般には新しく伽藍(がらん)を建造するか,または既存寺院を転用するかの2様が想定される。いずれにしろ国司と国師の両者に造営の責任が課せられ,郡司ら地方豪族にも協力を求めている。760年代半ばごろ国分寺はほぼ全国的に完備し,これ以後9世紀前半にかけての時期は〈修造〉のことが督励された。また国分寺が倒壊・焼亡すれば,律令体制の弛緩(しかん)や地方財政の窮乏という状況下では再建することは困難であるので,国内の定額寺(じようがくじ)をもって国分寺の代替とする便宜的な措置をとるなど,ともかく国分寺制の維持につとめている。ところが同時期に,鎮護国家の仏事が国分寺のほかに定額寺や国庁でも催されると,国分寺が創建以来の使命とする護国仏教の役割は相対的に軽減した。やがて9世紀ないし10世紀になれば,国分寺はその存在意義を失って退廃に向かう。939年(天慶2)の太政官符(だいじようかんぷ)によると,〈国分二寺の堂塔雑舎仏像資財等,大破朽損す〉というありさまだった。
執筆者:

国分寺の寺域は国の格によって方3.5町の武蔵国,陸奥国の方800尺などの大きなものが多いが,方2町の例が上総,播磨,備中,備後,周防,讃岐,紀伊などと多く,方500尺の出雲と小さいものもあり,志摩,佐渡などの小国はさらに小さいものもある。尼寺は国分寺よりも小さく,常陸,下野,阿波など500尺四方であった。主要堂塔は南門を入ると中門,中門から出た回廊が金堂にとりつき,後方に講堂,その後に僧房が配され,塔が金堂院の東あるいは西方の外郭に配される例が最も多いが,相模国分寺や下総国分寺のように塔と金堂が併立する法隆寺式配置のもの,中門金堂をつなぐ回廊内の金堂の南東に塔を配する上総,筑前のような例もあり,寺地の地勢とともに各国とも異なって,どれ一つとして同じものがない。尼寺は備中をのぞいて塔がないのが通例で,南門,中門,金堂,講堂,尼坊と中軸線上に並ぶようである。

 金堂も講堂も間口7間奥行4間が通例で佐渡のように5間のものもみられる。講堂も間口7間が多いが,下総,相模のように平安時代に9間にひろげられた例がみられる。塔も10尺等間の例が多いが,安芸のように小型のものがあり,すべてが七重であったかどうかはわからない。建築は塔に一番よくあらわれているように,都の建物のように間口の中央間を一番ひろくとり両脇にゆくほど柱間寸法を逓減するというようなきめこまかな設計でなく,等間で両端の廂部分だけ少なくするものが多く,技術的拙劣さが目だつ。このことは屋根に葺いた瓦にも端的にあらわれる。都より持ち帰った雛形を忠実に模した上総,美作の例はよい方で,隷下の各郡に命じて納めさせた武蔵など各地独自の文様をもつ瓦が用いられる。ただ従来国分寺瓦すべてを奈良時代と考えがちであるが,より古い7世紀の瓦を集めて使ったり,平安時代のより文様の退化した粗悪な瓦も多く含まれていることは注意しなければならない。

 国分寺の本尊は奈良時代のものは一つも現存せず東大寺にならって毘盧遮那仏かと考えられがちであるが,平安時代以降の現存する本尊のほとんどが薬師如来であり,いま廃寺となって現地に残る小堂も薬師堂と呼ばれるものが多い。現在,寺院の残るところは陸奥,武蔵,信濃,美濃,備中,備後,讃岐,土佐,筑前など数えるほどしかない。
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国分寺[市] (こくぶんじ)

東京都中部の市。1964年市制。人口12万0650(2010)。都心から西へ27km,府中市の北に接する近郊都市で,市名は奈良時代に建立された武蔵国分寺に由来する。現在礎石だけが残る国分寺跡(史)は中央本線国分寺駅南西約2km,武蔵野台地を東西方向に走る国分寺崖線の崖下の湧水地域にある。古い集落はこの寺の跡近くの崖下に発生したが,崖上は水に乏しく,玉川上水開削後の江戸中期に初めて新田集落がつくられ,その後純農村として明治に至った。1889年の甲武鉄道(現,JR中央本線)開通をはじめ,昭和初期までに川越鉄道(現,西武国分寺線),多摩湖鉄道(現,西武多摩湖線)が敷設されて国分寺駅は交通の結節点となり,東京の近郊都市の性格が強まった。第2次大戦後の人口増加は特にめざましく,1973年には武蔵野線の開通に伴い中央本線との交点に新たに西国分寺駅が開設された。日立製作所中央研究所,東京経済大学,万葉植物園などがある。
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国分寺(栃木) (こくぶんじ)

国分寺(香川) (こくぶんじ)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国分寺」の意味・わかりやすい解説

国分寺
こくぶんじ

香川県中部,高松市西部の旧町域。高松平野の北西部に位置し,本津川沿岸の低地周囲に五色台の一峰をなす大平山,孤立丘の伽藍山,六ツ目山,鷲ノ山,火ノ山などが連なる。 1955年端岡村と山内村が合体して町制。 2006年高松市に編入。四国八十八ヵ所第 80番札所である国分寺の境内にある讃岐国分寺跡は国の特別史跡,付近の讃岐国分尼寺跡も国の史跡に指定されている。産業は農業が中心で,マツなど盆栽の特産地でもある。五色台南西端の国分台には2万~3万年前の讃岐岩製の打製石器多数が出土した遺跡がある。大平山付近は瀬戸内海国立公園に属する。

国分寺
こくぶんじ

奈良時代,聖武天皇の詔によって天平 13 (741) 年諸国に建立された寺。正しくは,僧寺を金光明四天王護国之寺,尼寺を法華滅罪之寺という。国分寺は国府の近くに,国分尼寺の鐘の音の聞えるところにおかれた。釈迦如来像を本尊とし,僧寺には,七重塔を設けて『金光明経』を,尼寺には『法華経』をおき,別に天皇の書写になる金字の『最勝王経』を納めた。これは,入唐留学僧玄 昉の進言によって,中国の制度を模したものであるが,当時の社会不安や疫病の流行などによって,建立の詔が出されたものと思われる。平安時代中期以降には国分寺の多くは廃絶したが,残ったものも本来の姿は失われた。

国分寺
こくぶんじ

栃木県南部,下野市南西部の旧町域。下野平野の中部にあり,小山市の北に接する。 1954年国分寺小金井町として町制ののち,国分寺町に改称。 2006年石橋町,南河内町と合体して下野市となった。開発が古く,西部に国の史跡の下野国分寺跡下野国分尼寺跡があり,尼寺跡は公園となった。中心地区は小金井で,化学,繊維,麦芽の加工工業が行なわれる。町並みの南端にある小金井一里塚も国指定史跡。周辺はかんぴょうの産地。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「国分寺」の解説

国分寺
こくぶんじ

741年(天平13)聖武天皇の発願により国ごとに設けられた僧寺。護国経典の一つ「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」に依拠して設立され,正式には金光明四天王護国之寺(ごこくのてら)と称する。国衙(こくが)所在地に近く,人里と適度に距離を隔てて立地し,境内に七重塔がたてられて,聖武天皇直筆の金字の「金光明最勝王経」が安置された。また封戸(ふこ)50戸と水田10町を施入するとともに,僧20人を常住させ,欠員があれば補充することとされた。鎮護国家の機能をになう本格的な地方の官寺として国家の期待がよせられたが,その建築は順調には進展せず,既存の寺院を転用して国分寺とする場合もあった。近年各地で国分寺の発掘調査が進められているが,その規模や伽藍配置などは多様である。

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旺文社日本史事典 三訂版 「国分寺」の解説

国分寺
こくぶんじ

741年,聖武天皇の勅願により,鎮護国家の目的で諸国に建てられた寺院
僧寺と尼寺がある。僧寺では七重塔1基を造り『金光明最勝王経』を安置し,金光明四天王護国之寺と名づけ,尼寺には『妙法蓮華経』を置かせ,法華滅罪之寺と名づけた。また両寺に水田各10町を与え,僧寺には20僧,尼寺には10尼を配置した。尼寺の規模は僧寺より小さい。国分寺には僧官が置かれて国司の監督のもとに寺務をとり,一国の僧尼を監督した。さらに講師が置かれ,講説・読経にあたった。ほぼ全国的に置かれたと考えられる。

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デジタル大辞泉プラス 「国分寺」の解説

国分寺〔香川県〕

香川県高松市国分寺町国分にある真言宗御室派の寺院。山号は白牛山、院号は千手院。本尊は十一面千手観世音菩薩。四国八十八ヶ所霊場第80番札所。聖武天皇の国分寺建立の詔により建立された国分寺のひとつ。本堂は国の重要文化財、境内・周辺地を含む旧讃岐国分寺の寺域は国の特別史跡に指定。

国分寺〔高知県〕

高知県南国市にある寺院。「土佐国分寺」ともいう。真言宗智山派。山号は摩尼山、院号は宝蔵院。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八ヶ所霊場第29番札所。境内は「土佐国分寺跡」として国の史跡に指定。金堂、梵鐘などは国の重要文化財。庭園は杉苔が美しく「土佐の苔寺」の異名もある。

国分寺〔愛媛県〕

愛媛県今治市にある寺院。「伊予国分寺」ともいう。天正年間、聖武天皇の勅願による創建と伝わる。真言律宗。山号は金光山、院号は最勝院。本尊は薬師瑠璃光如来。四国八十八ヶ所霊場第59番札所。境内東方にある「伊予国分寺塔跡」は国指定史跡。

国分寺〔徳島県〕

徳島県徳島市国府町にある曹洞宗の寺院。山号は法養山、本尊は薬師如来。四国八十八ヶ所霊場第15番札所。「阿波国分寺」ともいう。庭園は国指定名勝。境内は「阿波国分寺跡」として県の史跡に指定。

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防府市歴史用語集 「国分寺」の解説

国分寺

 741年の聖武天皇[しょうむてんのう]の命によって、全国に造られました。「国分寺」というと主に「国分僧寺[こくぶんそうじ]」を指します。境内[けいだい]に七重塔が建てられ、僧20人がいました。

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世界大百科事典(旧版)内の国分寺の言及

【開元寺】より

…玄宗は738年(開元26)に勅して両京と各州に一つずつ仏寺と道観を建てさせ,年号にちなんで開元寺,開元観と名づけた。則天武后がおいた大雲経寺にならったもので,日本の国分寺はこれらをモデルにしている。744年には玄宗等身の仏像と天尊像を開元寺観に奉安させ,鎮護国家の役割を果たさせた。…

【官寺】より

…官寺すなわち大寺は国家が檀越(だんおつ)で,造建するに当たっては,造仏官,造寺司が設けられた。741年(天平13)には国分寺,国分尼寺の設置があり,地方の国司,国師が監督した。一方貴族,豪族の私寺には一定の用途(修理・灯分料)を支給して国家統制下におく定額寺(じようがくじ)があったが,その数は明らかでない。…

【大雲寺】より

…のちに中宗は竜興寺,玄宗は開元寺を建てた。日本の国分寺はこれらの模倣である。【礪波 護】。…

【鎮護国家】より

… 日本においてはこれらの動向をうけて660年(斉明6)5月に仁王会が行われ,677年(天武6)11月には諸国で《金光明経》《仁王経》の講説が行われ,宮中においても《金光明経》が講説されるにいたり,以後律令国家成立に密接な関係をもつようになった。741年(天平13)2月の国分二寺(国分寺)の創建は,中国にその範を求めた制度とはいいながら,前年における天然痘の流行や藤原広嗣の乱による国情不安にも起因する。僧寺は〈金光明四天王護国之寺〉といい,《金光明最勝王経》によった寺として,尼寺は〈法華滅罪之寺〉と称して,《法華経》に基づいた寺として創建された。…

【仏教】より

…官寺を中心に,そこでは学問のほか,国家鎮護の祈禱が盛んに行われた。それを象徴するものが,聖武天皇による741年(天平13)の国分寺造営の詔と,743年の大仏造営発願の詔だった。相続く政局の動揺で衝撃をうけた聖武の朝廷が,仏教による国家の平安と繁栄を祈る試みだった。…

【文帝】より

…それも南北朝時代への反省に立ち,君主権の強化を急いだ結果であるが,君主権を弱体化する貴族・豪族勢力を抑えるため,587年に開始した官吏登用制度いわゆる科挙は,唐代になって機能を発揮しはじめ,紆余曲折を経ながら清末まで継承された事実をみても,彼の創見,くふうのすばらしさがわかる。 彼はまた仏教信仰による民心収攬をもくろみ,601年(仁寿1)と604年の2回にわたり100余州に仏舎利塔を建立しているが,これも唐代の官寺,日本の国分寺の濫觴(らんしよう)となっている。みずから節倹にはげみ賦税を軽減し民力を強め国庫を充実したが,それが煬帝(ようだい)を相つぐ大土木工事,無謀な侵略戦争に駆りたてる原因となったのは皮肉である。…

※「国分寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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