愛知県南部、豊橋(とよはし)市から西へ延びた東西走向の半島。知多(ちた)半島とともに三河湾を抱く。遠州灘(えんしゅうなだ)と三河湾を分離し、遠州灘側を表浜(おもてはま)(外浜とも)、三河湾側を裏浜(うらはま)とよんでいる。表浜は直線状の海食崖(がい)が続き、片浜(かたはま)十三里(伊良湖(いらご)岬―今切(いまぎれ)間約50キロメートル)ともいわれ、裏浜は田原、福江の港もあり変化に富む。半島全体が逆傾斜地形をなし、表浜は海食で後退、裏浜は土砂堆積(たいせき)によるデルタ、砂嘴(さし)、浅海となっている。半島の地質は、基盤岩は秩父中・古生層、その上を不整合に覆うのが第四紀更新世(洪積世)の堆積物で、緩やかな台地状をしている。基盤岩は八名(やな)、弓張(ゆみはり)山地の延長線上に蔵王(ざおう)山、大山(おおやま)、宮山、古山(こやま)などを突出させている。秩父中・古生層はチャートを主体に砂岩、頁(けつ)岩、輝緑凝灰(きりょくぎょうかい)岩で、岬端(こうたん)部には観光シンボルの日出の石門(ひいのせきもん)がある。石門は硬質なチャートである。半島基部の豊橋市の高師原(たかしはら)、天伯原(てんぱくばら)台地は緩やかな波浪状台地をなしている。気候は東海式気候区に属し、無霜期間約270日という温暖な気候で、宮山原始林(暖地性植物)は国の天然記念物に指定されている。豊川用水によって乏水性が解消され、田原(たはら)市は温室園芸が盛んとなり、全国一の電照ギク、メロン、トマトの産地となっている。基部の高師原、天伯原台地は畑地灌漑(かんがい)によるキャベツ、スイカの特産地、大規模養鶏で有名。伊良湖岬は三河湾国定公園の観光拠点で観光施設も整備されている。
[伊藤郷平]
愛知県南東部,知多半島とともに三河湾をいだいてほぼ東西方向にのびている半島。赤石山脈から紀伊山地へと続く中央構造線の外帯にあり,蔵王山(250m),大山(327.9m)などの古生層の山地と,渥美層群からなる天伯原などの洪積台地が半島の骨格をなしている。洪積台地は太平洋側に高く,三河湾側にゆるやかに傾斜している。太平洋岸は海食により比高20~70mの断崖が延々と続き,片浜十三里といわれている。田原市には縄文後期・晩期の遺跡があり(吉胡貝塚,伊川津貝塚),そこから数多く発掘された人骨により,屈葬,抜歯の風習など縄文人の生活が明らかにされた。中世に伊勢神宮領であった渥美半島にはほぼ全域にわたって80群の古窯が分布しており,当時海上輸送によって伊勢,熊野をはじめ各地に製品を送り出していた。大アラコ古窯跡,伊良湖東大寺瓦窯跡,百々(どうどう)陶器窯跡の三つが国の史跡になっている。近世には内湾の干拓が進み天津新田,神福新田などが生まれた。渥美半島西部の立馬崎には砂嘴(さし)が発達し,その内側に形成された福江湾は古くからノリの養殖が行われてきたところで,近世,明治時代には伊勢,尾張との間に船の出入りが多く重要な港湾としての機能ももっていた。ところが,連絡港としての伊良湖港が建設されてからは漁港としての性格を残すだけとなった。半島東部の田原湾は,1966年からの埋立てにより,かつてのノリ養殖は姿を消し,三河湾臨海工業地域の基地として変貌した。無霜期間270日という温暖な気候を生かした農業が古くから盛んで,明治・大正時代には養蚕,昭和初期には養鶏,養蜂,花卉や野菜の露地栽培,戦後はメロン,電照菊の温室栽培が中心になってきた。とくに68年の豊川用水の完成にともなって各地に大規模な温室が立ち並び,日本を代表する温室園芸地域が形成された。県内では専業農家率が高い地域である。渥美半島は観光地としても名高く,三河湾国定公園の拠点になっている。半島中ほどの三河田原まで豊橋鉄道渥美線が通じ,国道259号線が先端の伊良湖岬までのび,知多半島や鳥羽とはカーフェリーで結ばれる。江比間,宇津江などの海水浴場,赤羽根のサーフィン場,渥美フラワーセンター,島崎藤村の《椰子の実》の舞台となった恋路ヶ浜がある。
執筆者:溝口 常俊
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