改訂新版 世界大百科事典 「干鰯問屋」の意味・わかりやすい解説
干鰯問屋 (ほしかどんや)
江戸時代の魚肥の問屋兼仲買商。農業生産における魚肥の施用は戦国期に始まるが,江戸時代に入って大衆的衣料として普及した木綿の原料としての綿作の発展は,速効性にすぐれた購入肥料としての魚肥の需要を増大させ,大坂,江戸をはじめ各地に魚肥を扱う干鰯問屋が成立した。なかでも江戸前期から綿作の特産地を形成した畿内農村への魚肥の供給地として,早くから堺,尼崎に干鰯の入津がみられたが,1624年(寛永1)大坂の永代浜に干鰯揚場が開かれ,新靱,新天満,海部堀川3町を中心とする通称靱島(うつぼのしま)(現在の西区)に干鰯問屋仲買が集住するに及んで,大坂商人の一中心勢力となった。彼らは53年(承応2)戎講(えびすこう)と称する同業組合としての仲間を結成し,四国,九州の網元に前貸金を与え,新漁場を開くなどして畿内農村の需要に応じた。さらに綿作の他地方への普及,および菜種・藍作,果樹栽培の展開に伴って播磨,丹波,伊賀,近江,阿波の国々へ販路を拡張した。一方,近世初頭以来,関西漁民の出稼漁によって開拓されたとされる房総地方産の魚肥は,はじめ上方への輸送の中継基地としての浦賀に1642年干鰯問屋が公許されたが,元禄期(1688-1704)を境とした出稼漁の衰退とともに凋落した。これに代わって関東の地元漁業と結びついて台頭した江戸の干鰯問屋は,深川の4ヵ所(銚子場,永代場,元場,江川場)に干鰯揚場を設け,1739年(元文4)株仲間の公認をうけ,43軒が登録されている。江戸問屋は当初産地の網元に従属する地位にあったが,後期には仕込金,前貸金によって漁業に対する問屋制支配を確立した。江戸に集荷された魚肥は主として上方地方に輸送されたが,その産地は九十九里地方から三陸に移り,さらに北海道に及んだ。とくに幕末には松前物と呼ばれる鯡(にしん)肥料が干鰯に代わって大量に出回り,大坂干鰯商仲間の中で,1819年(文政2)松前最寄組が組織されている。
執筆者:鶴岡 実枝子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報