伊崎浦(読み)いざきうら

日本歴史地名大系 「伊崎浦」の解説

伊崎浦
いざきうら

[現在地名]下関市上新地かみしんち町四丁目・伊崎町一―二丁目・新地西町しんちにしまちの各一部

現下関市の南西部にあたり、南は小瀬戸こせとを挟んでひこ島に対する海岸の村。東は今浦いまうら、北と西は大坪おおつぼ村と接する。清末藩領。

豊臣秀吉朝鮮出兵に従軍した石州津和野つわの(現島根県鹿足郡)の吉見元頼の家臣下瀬頼直の「朝鮮渡海日記」天正二〇年(一五九二)三月一九日に「同郡の内小野と申所まて御陣替候、明ル廿日ニ井崎へ御出被成候て元康様御対談被成候事」とあり「井崎」とみえる。

伊崎浦
いざきうら

[現在地名]中央区伊崎・西公園

荒戸あらと山西麓、ヤナ堀(唐人町口堀)の河口部東岸に位置する浦。早良さわら鳥飼とりかい村の内(続風土記拾遺)。福岡博多近隣古図では「荒戸村之内伊崎浦」と記され、南は荒戸五番町。慶長(一五九六―一六一五)初めに長門国赤間関あかまがせき(現山口県下関市)の西の伊崎浦の漁民が移住し、のち村落を形成したという(続風土記拾遺)。文化九年(一八一二)郡方覚に浦庄屋源六の名がみえ、福岡藩の公的な浦であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報