鳥飼村(読み)とりかいむら

日本歴史地名大系 「鳥飼村」の解説

鳥飼村
とりかいむら

[現在地名]中央区鳥飼一―三丁目・草香江くさがえ一―二丁目・たに一―二丁目・伊崎いざき西公園にしこうえん六本松ろつぽんまつ一―四丁目・大濠おおほり二丁目、城南じようなん区鳥飼四―七丁目・別府べふ二―三丁目・同五丁目・城西団地じようせいだんち早良さわら城西じようせい一―三丁目

早良郡に所属。福岡城の西方樋井ひい川の流域に位置する。北は福岡城下、東は福岡城のおお堀に臨む。当村の東から南はかつては入海で、草香江(千賀浦ともいう)とよばれていたというが(続風土記拾遺)、慶長年間(一五九六―一六一五)黒田長政による福岡城築城の際に入江の口が埋立てられ、大堀となった(正保三年「福博惣絵図」福岡市博物館蔵など)。なお「万葉集」巻四に大伴旅人の「草香江の入江に求食る葦鶴のあなたづたづし友無しにして」の歌が載り、「八雲御抄」の名所部は「くさか」江を筑前国の歌枕としているが、草香江については摂津国にあてる説もある(「続風土記」など)。別本「続風土記附録」は別府村・谷村荒戸あらと村を当村の内とし、「続風土記拾遺」は本村のほかに別府・大鋸谷おおがのたに(茶円谷)・荒戸・地行じぎよう伊崎浦などに集落が散在すると記す。

中世は筥崎宮領。文永一一年(一二七四)一〇月の文永の役では鳥飼でモンゴル軍との遭遇戦があった。合戦の様子を記した「蒙古襲来絵詞」には「とりかひのしほひがた」(鳥飼の塩干潟)や鳥飼潟の塩屋の松がみえ、鳥飼で奮戦する竹崎季長の姿が描かれている。


鳥飼村
とりかいむら

[現在地名]大刀洗町三川みかわ 鳥飼

筑後川右岸にあり、東部佐田さだ川が筑後川に注ぐ。西原にしばる村の東に位置する。建武三年(一三三六)五月一六日「鳥飼津留并北野原」で足利尊氏方の仁木義長と菊池武敏軍勢が合戦したが(同年五月日「青方高直軍忠状案」青方文書/南北朝遺文(九州編)一)、この鳥飼は当地とされる。新田義信の古城跡があり(寛延記)、東西二四間・南北三〇間という(「石原家記」寛文一〇年条)。「古代日記書抜」寛文一〇年(一六七〇)三月条に南鳥飼・北鳥飼とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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