余目町(読み)あまるめまち

日本歴史地名大系 「余目町」の解説

余目町
あまるめまち

面積:五九・一六平方キロ

庄内平野の中央部にあり、標高の最高が南東端の古関ふるせき付近で一三・七メートル、最低が西方家根合かねあい付近で四・三メートル、平均八・八メートルの平坦地。北を最上川が北西へ流れ、対岸飽海あくみ松山まつやま町・平田ひらた町。南を京田きようでん川が北西へ流れ、対岸は藤島ふじしま町・三川みかわ町。中央を北楯大きただておお堰が東から西へ流れる。この大堰からの多数の支堰による米作地帯として発展してきた。

町域は「和名抄」記載の出羽郡余戸あまるべ郷に比定される。中世には海辺あまべ余部あまるべのうちに含まれ、惣太そうた郷・阿佐丸あさまる郷・阿都あと郷・ふくろ郷が町域に比定される。これらの郷は鎌倉中期以降武蔵国賀美かみ安保あぼ(現埼玉県児玉郡神川村)を本貫の地とする安保氏庶家に伝領され、室町期には現余目字たてを中心に館(余目城)が築かれた(→海辺庄。慶長一七年(一六一二)北楯大堰が開削されると、最上川流域の原野谷地が次々に開発され、慶長期には古関・南野みなみの、元和期(一六一五―二四)には近江おうみ新田・返町そりまち中島なかじま・余目新田・前田野目まえたのめ西袋にしぶくろなど、寛永期(一六二四―四四)には大野おおの西小野方にしおのかた主殿とのも新田・菖蒲島しようぶしまなど、正保期(一六四四―四八)には西野にしの・南野新田、慶安期(一六四八―五二)には関根せきね吉岡よしおかなど、承応期(一六五二―五五)には福原ふくはら下朝丸しもあさまる宮曾根みやぞねなど、明暦元年(一六五五)赤淵あかぶち新田、万治元年(一六五八)小出こいで新田、寛文期(一六六一―七三)には生田いくた新田・連枝興野れんしこうやが村立てされた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報