海辺庄(読み)あまべのしよう

日本歴史地名大系 「海辺庄」の解説

海辺庄
あまべのしよう

鎌倉初期から南北朝期にみられる庄園。庄域は庄内地方の最上川の南、京田きようでん川の北、平野部と東側の丘陵地帯から立谷沢たちやざわ川にかけての一帯。現在の立川たちかわ町・余目あまるめ町、および最上川以南の酒田市にあたる。庄内には余部あまるべ阿都あと阿佐丸あさまる惣太そうたふくろ(現余目町)、船越・佐々崎、狩河かりかわ(現立川町)の各郷と尾青、清河きよかわ(現立川町)、宗太・一沢の各村があった。「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一月六日条に「出羽国海辺庄」とみえ、奥州平泉の藤原泰衡の郎従大河兼任らが主人の敵討のため挙兵し、源義経と称して当庄に出没したという。永仁五年(一二九七)三月二二日、勝楽しようらく(跡地は現藤島町)の僧範空が弟子の浄観に与えた印信に「羽州大泉海遍御庄勝楽寺」とみえる(金沢文庫古文書仏事編)

建武三年(一三三六)一二月一一日、「海辺余部内宗太村」などの地頭職が、代々譲状および正安三年(一三〇一)一二月一〇日と正慶二年(一三三三)二月二九日の外題安堵状などにより、安保光泰(法名光阿)に安堵されている(「足利直義下文」安保文書)。暦応三年(一三四〇)一月二四日、光泰は嫡子泰規に海辺余部内余部・惣太両郷を、次男直実に同阿佐丸・阿部(都)・袋三ヵ郷を、三男光経(行泰)に同佐々崎郷を譲ると定めたが(「安保光泰置文」同文書)、行泰が戦死したため、同年八月二二日に船越佐々崎郷を彦五郎に、直実には阿佐丸・袋の二郷を譲り直している(「安保光泰置文」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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