朝日日本歴史人物事典 「保科正直」の解説
保科正直
生年:天文11(1542)
安土桃山時代の武将。正俊の子。通称甚四郎。越前守,弾正忠。信濃国伊那郡高遠(長野県高遠町)生まれ。初め武田氏に属して三河,遠江の侵攻に加わる。天正10(1582)年3月の武田氏滅亡の際は飯田城にあって守備に当たっていたが,同年6月の本能寺の変ののちは,高遠城により徳川家康に属した。天正18年,家康が豊臣秀吉によって関東に移封されると,それに従って多胡(千葉県)で1万石を領し,まもなく家督を長子正光に譲った。慶長5(1600)年関ケ原の戦で徳川方が勝利すると戦功により高遠に戻り,同地にて没。<参考文献>「保科御事歴」(『信濃史料叢書』2巻)
(笹本正治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報