改訂新版 世界大百科事典 「スチュアート朝」の意味・わかりやすい解説
スチュアート朝 (スチュアートちょう)
Stuarts
Stewarts
中世末期から18世紀初頭にかけてのスコットランドとイングランドの王朝。その家系はブルターニュのフランス系貴族に由来し,12世紀からスコットランドに定住した。スコットランド王家に宮宰として仕え,国王ロバート・ブルースのイングランドに対する抗戦を支持し,1371年には一門のロバート2世が王位について,スチュアート朝を始めた。スチュアートの名称は宮宰stewardに由来する。スコットランドでは,イングランド,フランスなどの外国勢力と結んだ貴族間の抗争が激烈を極めたため,王権の基盤は弱く,スチュアート朝の諸王には殺害されたり戦場で倒れたものが続出し,多くは未成年で即位した。1542年ジェームズ5世が死ぬと,娘のメアリー・スチュアートは生後1週間で即位し,のちフランスに送られてその皇太子妃となった。夫のフランソワ2世の病死により帰国したメアリーは,新旧両教派の貴族の抗争にまきこまれ,みずからの不品行もあって退位し,67年息子のジェームズ6世が即位した。しかしメアリーの生涯のライバルであったイングランド・チューダー朝のエリザベス1世が未婚で王位継承者をもたなかったため,1603年ジェームズが,チューダー朝の開祖ヘンリー7世の玄孫にあたる血縁関係からイングランドに迎えられ,ジェームズ1世として即位し,両王国は同君連合の関係に入った。これがイングランドにおけるスチュアート朝の始まりである。
初期の2人の王ジェームズ1世とチャールズ1世は,イングランドの慣習を無視して専制を行い,議会との対立を深めてピューリタン革命となり,49年チャールズ1世は処刑され,以後60年まで王位は空位となってスチュアート朝は断絶した。この間1651年スコットランド王として戴冠していた息子のチャールズ2世は,60年の王政復古によって帰国し,復位した。だが彼と弟のジェームズ2世は,革命の教訓を忘れてふたたび専制に走ったので,88年名誉革命が起こり,ジェームズ2世の長女メアリーとその夫のオランダ総督ウィレムが迎えられて,メアリー2世,ウィリアム3世として共同で統治にあたることになった。ジェームズ2世とその直系の子孫の王位継承権は,〈権利章典〉(1689)ならびに〈王位継承法〉(1701)によって否認されたが,その復位をはかるジャコバイトの陰謀が,フランスの支持のもとにおもにスコットランドを基盤に繰り返された。ウィリアム3世の次のアン女王の治世にイングランドとスコットランドは合同し(1707),グレート・ブリテン連合王国となった。1714年アン女王が後継者をもたずに死去したため,〈王位継承法〉に従い,ドイツから来たジョージ1世がハノーバー朝をはじめた。スチュアート朝の時代のイギリスは,ピューリタン革命と名誉革命の2度の革命を経験して,立憲君主制の政体を整備し,また植民地帝国の建設にのりだした,大きな転換期にあたっている。
執筆者:今井 宏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報