保美村(読み)ほみむら

日本歴史地名大系 「保美村」の解説

保美村
ほみむら

[現在地名]藤岡市保美

東境を北流する神流かんな川が北境を東流する三名さんな川を北東端で合する。東は武蔵国児玉こだま新宿しんしゆく(現埼玉県児玉郡神川村)、南は浄法寺じようぼうじ(現多野郡鬼石町)、西は三本木さんぼぎ村、北は牛田うした村・神田じんだ村と接する。十石じつこく街道が東部を南北に抜ける。「和名抄保美郷の遺称地。永禄六年(一五六三)五月一〇日に武田信玄との申合せによって安保氏に与えられた地に「保美」がある(「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。慶応元年(一八六五)の村中名前控帳(清水文書)によると、天正一八年(一五九〇)の北条氏滅亡に際し小田原と武州鉢形はちがた(現埼玉県大里郡寄居町)から同高柳たかやなぎ(現児玉郡児玉町)へ落ちた者たちが、その後当地に移住したとあり、また延宝四年(一六七六)の暴風雨の時、中興の芝起役として一〇軒ほどが派遣され土着したという。

保美村
ほびむら

[現在地名]渥美町保美

はたケ村の西方に接している。当村字下地しもじ畑中に「杜国屋敷跡」と刻んだ石柱が立つ。杜国は貞享二年(一六八五)に延米商いをした罪で名古屋から畑ケ村に送られたのち保美村に隠棲した。師の芭蕉は同四年の初冬越人を連れて訪れた。杜国が芭蕉に送った句に「此頃の氷ふみわる名残哉」とあり、芭蕉は「白けしに羽もぐ蝶のかたみかな」と吟じた。杜国は元禄三年(一六九〇)当地で没。

保美村はもと幕府領で、寛永二年(一六二五)旗本清水権之助領となり、享保一〇年(一七二五)に再び幕府領に戻り、安永元年(一七七二)に相良藩田沼意次領となり、天明二年(一七八二)に幕府領となって明治に至った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報