日本歴史地名大系 「藤岡市」の解説 藤岡市ふじおかし 面積:一二七・七一平方キロ県の最南部、やや西寄りに位置し、東は神流(かんな)川を隔てて埼玉県児玉(こだま)郡上里(かみさと)町・神川(かみかわ)村および多野(たの)郡新(しん)町、南は多野(たの)郡鬼石(おにし)町・万場(まんば)町・中里(なかざと)村、西は同郡吉井(よしい)町と甘楽(かんら)郡甘楽町・下仁田(しもにた)町、北は高崎市に接する。地形は東西に細長く、総面積の約六〇パーセントが御荷鉾(みかぼ)山系の山地で占められ、赤久縄(あかぐな)山(一五二二・三メートル)、西御荷鉾山(一二八六・二メートル)、東御荷鉾山(一二四六メートル)が西南部にそびえる。市街地は神流川・鮎(あゆ)川・鏑(かぶら)川の沖積によって形成された標高一二〇―九〇メートルの藤岡台地の東寄りに位置する。冬季でも平坦部の降雪は少ないが、晩秋から初春にかけて本県特有の空っ風が吹き、民家はカシの木を植えて防風している。昭和九年(一九三四)八高線が開通し、群馬藤岡駅が開設。北部を国道一七号、市街地を東西に国道二五四号が通り、東北部を通る関越自動車道の藤岡インターチェンジが開設している。古くから「日野絹」で知られる養蚕業や「藤岡瓦」で有名な窯業も、都市化・工業化の波に押され産業構造は大きく変わりつつある。近世には多胡(たご)郡に属した上日野(かみひの)・下日野二ヵ村を除き市域の各村は緑野(みどの)郡に属し、多野郡成立後は同郡に属した。〔原始・古代〕市街地西南の庚申(こうしん)山北腹の北山(きたやま)遺跡から旧石器時代のナイフ形石器・台状形石器が出土し注目される。鮎川上流の坂野(さかの)遺跡、同下流の中大塚(なかおおづか)縄文時代敷石遺構(県指定史跡)、北山遺跡に程近い光徳寺(こうとくじ)裏山遺跡など縄文時代の遺跡があり、縄文式土器や石器は市内各地に散布する。近年の発掘調査で西平井の竹沼(にしひらいのたけぬま)遺跡、立石の沖(たついしのおき)II遺跡、小林(こばやし)の堀(ほり)ノ内(うち)遺跡からは縄文時代の住居跡・土石器とともに弥生時代の住居跡・土石器が出土している。昭和一〇年の調査によると本県古墳数八千四二三基中その一四パーセントの一千一九八基が存在、その後の開発によって崩壊されたものも多いが神田(じんだ)・東平井・白石(しろいし)・小林などには古墳群として残っている。代表的なものは周湟を残す七輿山(ななこしやま)古墳(国指定史跡、上落合)と竪穴式石室をもつ稲荷山(いなりやま)古墳(白石)が前方後円墳、石室の築構上から自然石積みの伊勢塚(いせづか)古墳(県指定史跡、上落合)、切石積みで採寸に唐尺を用いている喜蔵塚(きぞうづか)古墳(白石)、本県には二例しか確認されていない複室式石室をもつ皇子塚(おうじづか)古墳(三つ木)などがある。 藤岡市ふじおかし 2006年1月1日:藤岡市が多野郡鬼石町を編入⇒【鬼石町】群馬県:多野郡⇒【藤岡市】群馬県 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤岡市」の意味・わかりやすい解説 藤岡〔市〕ふじおか 群馬県南部,利根川の支流神流川の下流左岸部を占める市。 1954年藤岡町と神流村,小野村,美土里村,美九里村の1町4村が合体して市制。 1955年日野村,平井村の2村を編入。 2006年鬼石町を編入。中世は有田氏の城下町として発展。江戸時代には中山道の脇往還,信濃別路の宿場町としてにぎわった。周辺の養蚕地帯を背景に市場が開設され,生糸,絹織物などの取り引きで繁栄した。 1965年頃から北部の小野に金属加工,事務器具製造などの工場が立地。輸送機械や電気機器も生産される。大消費地に近いため,都市近郊型農業が行なわれる。南部の鬼石は市場町として発達。三名湖は,釣りの適地でサクラの名所。鬼石にある満福寺所蔵の紙本著色泰西王侯図 (2幅) は国の重要文化財に指定されている。本郷埴輪窯跡や七輿山古墳,白石稲荷山古墳 (ともに国指定史跡) をはじめ多くの古墳が見つかっている。このほか譲原石器時代住居跡 (国指定史跡) ,三波石峡 (国指定名勝・天然記念物) ,下久保ダム,八塩温泉などの観光・保養地があり,冬桜の三波川サクラは国の名勝・天然記念物。野見宿禰をまつった土師神社には相撲場がある。江戸時代の数学者関孝和の生誕地といわれる。 JR八高線,国道 17号線などが通り,関越自動車道と上信越自動車道の分岐点。面積 180.29km2。人口 6万3261(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by