浄法寺村(読み)じようぼうじむら

日本歴史地名大系 「浄法寺村」の解説

浄法寺村
じようぼうじむら

[現在地名]浄法寺町浄法寺

安比あつぴ川の中流沖積低地と周囲の丘陵山間に位置し、東は吉田よしだ村、西は杉沢すぎさわ村。永禄六年(一五六三)一二月一五日の二方兵庫助宛の佐竹右京大夫義昭書状(秋田二方文書)に「今度浄法寺就取詰別而辛労一段喜悦候」とみえる。同日付の上遠野右衛門大夫宛の同書状(秋田上遠野文書)も同じ内容を記している。これらは秋田と浄法寺との深い関係を示すといえよう。天正一九年(一五九一)と推定される七月二二日の南部信直書状(福岡川嶋文書)では浄法寺の地名がみえ、当地の動きに注目している。慶長六年(一六〇一)閏一一月一一日の南部利直知行宛行状(桂清水観音史蹟考)に「浄法寺之内ニ而 三石八升」として桂清水かつらしみず別当坊へ都合四石四斗五合を与えている。この頃までは浄法寺の地名はこの地域の総称地名であったろう。同年一一月二二日の南部利直知行宛行状(三戸石井文書)では「糠部郡浄法寺村之内ニおゐて百五拾石」を石井豊前に与えている。

浄法寺村
じようぼうじむら

[現在地名]鬼石町浄法寺

東境を神流かんな川が北流し、東は武蔵国新宿しんしゆく(現埼玉県児玉郡神川村)、北は保美ほみ(現藤岡市)、西は高山たかやま(現同上)三波川さんばがわ村など、南は鬼石村と接する。東部を十石じつこく街道が南北に走る。村名は浄土院浄法寺による。

応永二五年(一四一八)三月三〇日に関東管領上杉憲実が長谷河山城守の押妨から鎌倉明王みようおう院領として安堵した地に「浄法寺内平塚牛田岩井三ケ所」がある(「関東管領家奉行人連署奉書」明王院文書)。しかし岩井いわいは現吉井よしい町内に比定され、地域的に浄法寺の内とは考えがたい。あるいは上杉憲方に永徳二年(一三八二)に安堵した地の再安堵状である明徳四年(一三九三)一一月二八日の足利義満下文(上杉家文書)にみえる「浄法寺土佐入道跡」、また康応元年(一三八九)八月一六日の明王院への大石重能の打渡状(明王院文書)にみえる「浄法寺九郎入道跡平塚・牛田・岩井」につながるものと思われる。

浄法寺村
じようぼうじむら

[現在地名]亀岡市しの町浄法寺・西にしつつじヶ丘雲仙台おかうんぜんだい・西つつじヶ丘霧島台きりしまだい・西つつじヶ丘五月台さつきだい

西は古世こせ村、北は三宅みやけ村・柏原かせばら村、東はしの広田ひろたもり三村、南は摂津国と山で境する。

現在集会所に安置されている阿弥陀如来坐像は、もと浄法寺(現廃寺)本尊で、鎌倉前期の作といわれる。口碑によれば、寺はもと南の山地寒谷さぶたににあり、その後当村へ移されたという。村の名は寺の移転後に生れたもので、鎌倉の前期頃と考えられる。

天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば、高三一一・一八石、戸数二四、亀山藩領。

浄法寺村
じようほうじむら

[現在地名]小川町浄法寺

現町域の北端に位置し、集落はほうき川の右岸段丘上に発達。同川を挟み北は蛭畑ひるはた(現湯津上村)など。天正一八年(一五九〇)の那須藤王丸資景知行目録(那須文書)に「浄法寺 たかの」合せて五二九石六斗とあり、那須氏に与えられた。慶安郷帳では田高一五六石余・畑高一五五石余、旗本那須領、ほかに同じく那須領の高野村(田高一一一石余・畑高一〇六石余)が載り、現在も上・中・下の高野こうやの地字が残る。元禄郷帳では幕府領、高七一七石余。改革組合村では家数三二。明治元年(一八六八)の軍夫取調帳(興野秀郎文書)によると家数三三、反別九六町八反余。「那須記」などによれば、かつて当地には新義真言宗の開祖覚鑁の弟子頼瑜を開山とし、堂一六宇・四九院を数えた大寺高野山常法(浄法)寺阿弥陀院があり、地名も同寺にちなみ古くは高野村と称し、のち浄法寺村と改めたと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報