デジタル大辞泉 「武田信玄」の意味・読み・例文・類語
たけだ‐しんげん【武田信玄】
新田次郎による長編の歴史小説。昭和40年(1965)から昭和48年(1973)まで、「歴史読本」誌にて連載。昭和44年(1969)から昭和48年(1973)にかけて、「風の巻」「林の巻」「火の巻」「山の巻」の全4冊を刊行。昭和63年(1988)放送のNHK大河ドラマの原作としても知られる。
戦国大名。初め甲斐(かい)国、のちには信濃(しなの)・駿河(するが)と、上野(こうずけ)・飛騨(ひだ)・美濃(みの)・遠江(とおとうみ)・三河の一部を領有する大大名となる。父は信虎(のぶとら)。母は大井信達(のぶなり)の娘。幼名を太郎、勝千代といい、元服して晴信(はるのぶ)と称した。官位は大膳大夫(だいぜんだゆう)、信濃守(しなののかみ)に任ぜられ、1559年(永禄2)に出家して信玄と号し、法性院(ほうしょういん)、徳栄軒(とくえいけん)とも称した。
1541年(天文10)に、暴政を振るって家臣団から見放された父信虎を駿河の今川義元(よしもと)のところへ追放し、家臣の支持を得て当主となった。家督相続の直後から信濃への侵入を開始し、諏訪(すわ)氏、小笠原(おがさわら)氏、村上氏などの信濃の諸大名を制圧し、領国の拡大を図った。そのため南下策をとっていた長尾景虎(ながおかげとら)(上杉謙信(けんしん))と対立することになり、1553年に両者は初めて北信濃で衝突する。その間信玄は領国内の制度の整備にも力を入れ、1547年には「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」を制定している。敗走した村上・小笠原氏らは越後(えちご)の長尾景虎に助力を求め、謙信は以後連年にわたって信濃へ出兵し信玄と対決した。これが著名な川中島(かわなかじま)の戦いで、1564年(永禄7)までのおもな対戦だけでも五度に及んだ。とりわけ1561年の対戦は有名で、真偽は不詳であるが、乱戦のなかで信玄と謙信との一騎討ちが行われたという俗説が残されている。謙信との対決でも優位を保った信玄は、その後、隣国の北条氏康(うじやす)、今川義元との婚姻による三者の同盟関係を梃子(てこ)に、西上野(こうずけ)に侵入し、北関東の領有をねらった。ここでも謙信と対決することになり、信玄は小田原北条氏と連携して謙信の南下を阻止した。同時にこのころから飛騨・美濃へも侵入し、金刺(かなざし)・遠山氏などの旧族を滅ぼして領国化した。1567年に長男義信(よしのぶ)を反逆罪で刑死させると、その妻(今川義元の娘)を今川氏真(うじざね)のもとへ返し、今川氏との同盟関係を絶った。信玄は翌年の暮に駿河侵攻の兵をおこし、1569年4月には氏真を追放して駿河を領有した。同時に遠江へは徳川家康が侵入し、今川氏は滅亡する。この事件を契機として、それまで同盟関係にあった北条氏と敵対することになり、信玄は北条氏と駿東(すんとう)郡・伊豆などで激しい戦いを繰り返した。1569年10月には、北条氏の本拠地である小田原城を包囲し、ついで相州(そうしゅう)三増(みませ)峠の戦いでも勝利を収めて、北条氏政と興津(おきつ)に対陣、伊豆に進攻した。しかし1571年(元亀2)には北条氏康の遺言によって和議を結んだ。信玄は北条氏との対決の過程で、関東の諸大名とも同盟関係を結び、常陸(ひたち)の佐竹(さたけ)氏、安房(あわ)の里見(さとみ)氏らに接近している。
北条氏との和議の成立後は、信玄の目標ははっきりと上洛(じょうらく)のための西上(さいじょう)作戦に向けられ、1572年に入ると、遠江・三河への出兵が相次ぎ、徳川家康とその背後にいた織田信長との対決が始まった。同年10月には、信玄自ら大軍をもって甲府を出発し、西上作戦を開始した。12月には家康の居城である浜松に近づき、三方(みかた)ヶ原で家康・信長の連合軍を打ち破った。その後進んで三河へ侵入し、徳川方の諸城を相次いで攻め落とした。しかし、翌1573年4月、三河野田城(愛知県新城(しんしろ)市豊島(とよしま)本城)を包囲中の陣中で病床に伏し、いったん甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷(いなだに)の駒場(こまんば)(長野県下伊那郡阿智(あち)村駒場(こまば))で4月12日、53歳をもって病死した。信玄の死は信玄の遺言どおりその子勝頼(かつより)によって3年間隠された。1576年(天正4)4月に本葬が営まれ、恵林寺(えりんじ)(山梨県甲州市)が墓所と定められた。法名は恵林寺殿機山玄公大居士。その後、勝頼によって高野山(こうやさん)へも分骨が行われ、その際、信玄の画像や遺品などが奉納されている。信玄の跡目は四男の勝頼が継ぐことになった。
信玄の政策として特徴的なことは、早くから領国内の交通路を整備し伝馬制度を確立させたことや、治山・治水に力を入れて信玄堤(づつみ)などを築いたことである。また占領地に旧城主や重臣を配置して支城領を形成していったこと、さらには、領国内の農民支配のための検地の実施や人返し法、商人・職人などを甲府へ集めて城下町を建設したことなどがあげられる。現在、高野山成慶院(せいけいいん)に残っている信玄の画像があるが、晩年の信玄は僧体で、恰幅(かっぷく)豊かな姿に描かれている。和歌や詩文の才もあり、戦国大名としては、文武両道を備えた名将であったと思われる。
[柴辻俊六]
『広瀬広一著『武田信玄伝』(1944・紙硯社)』▽『奥野高広著『武田信玄』(1959・吉川弘文館)』▽『磯貝正義著『武田信玄』(1970・新人物往来社)』▽『柴辻俊六著『戦国大名領の研究』(1981・名著出版)』
戦国期の武将。初め甲斐国の大名で,のちに信濃,駿河と上野,飛驒,美濃,三河,遠江の一部を領有する戦国大名となる。父は信虎。幼名を太郎,勝千代といい,元服して晴信と称し,官途は大膳大夫,信濃守に任ぜられた。1559年(永禄2)に出家して信玄と号し,法性院ともいう。武田氏は清和源氏の一族で,鎌倉初期には信義が甲斐国守護に任ぜられ,以後歴代が守護職をつぎ,信玄は守護としては17代目である。1541年(天文10)に,父信虎を駿河の今川義元の所へ追い,当主となる。家督相続の直後から信濃への侵攻を開始し,諏訪氏,小笠原氏,村上氏などの信濃の諸大名を制圧し,53年にはほぼ信濃を領有した。一方,敗走した村上義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)に援助を求め,長尾氏は信濃へ出兵し信玄と対決する。これが著名な川中島の戦の発端であり,64年(永禄7)までのおもな対戦だけでも5度におよぶ。その後,信玄は西上野へ侵入し,北関東の領有をねらった。両者の対決は北関東に拡大し,ここでも信玄は優位にたち,66年には西上野を領有した。同時にこのころから飛驒へも侵入し,金刺氏などの旧族を滅ぼして領有した。
この間,隣国の駿河の今川氏,相模の後北条氏とは同盟関係を保ち,婚姻関係を結んでいた。信玄は長男の義信に今川義元の娘を妻として迎えていたが,67年に義信が反逆罪で刑死すると,その妻を今川氏真のもとへ帰し,駿河との同盟関係を絶った。そして翌年の暮れには駿河侵攻の兵を起こし,69年4月には今川氏真を追って駿河を領有してしまった。同時に遠江へは徳川家康が侵攻し,今川氏は滅亡する。この事件をきっかけに,それまで同盟関係にあった後北条氏と敵対し,これ以後両者の争いは,71年(元亀2)に北条氏康が没して,その遺言で和睦するまで,おもに駿河駿東郡,伊豆などで激烈な戦いをくりかえした。とくに1569年10月には,信玄が後北条氏の本拠である小田原城を包囲しており,著名な三増峠の戦でも勝利を収めている。後北条氏と対決する過程では,関東の諸大名とも同盟関係を結び,常陸の佐竹氏,安房の里見氏らに接近している。
後北条氏との和議が成立した後は,信玄の目標ははっきりと上洛に向けられ,72年に入ると,遠江,三河への出兵があいつぎ,徳川家康およびその背後にいた織田信長と対決するに至った。同年の10月には,信玄みずから大軍を率いて,西上作戦のための出陣をしている。12月には家康の居城である浜松に近づき,三方原で家康・信長連合軍を打ち破り(三方原の戦),その後,進んで三河へ侵攻し,徳川氏の諸城を攻め落とした。しかし翌年4月,三河野田城包囲の陣中で病床に伏し,いったん甲府へ帰陣する途中の信濃駒場で53歳をもって病死する。死後その子武田勝頼によって喪は3年間隠され,76年(天正4)4月に本葬が営まれ,塩山の恵林寺が墓所と定められた。
執筆者:柴辻 俊六
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(市村高男)
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1521~73.4.12
戦国期の武将。実名晴信(はるのぶ)。甲斐・信濃を中心に勢力圏を築いた。1541年(天文10)父信虎を追放して家督をつぐ。42年諏訪頼重を滅ぼし,53年村上義清を追い,55年(弘治元)木曾義昌を従えて信濃を制圧。前後に越後の上杉謙信としばしば交戦(川中島の戦),1554年には駿河国今川氏・相模国後北条氏と同盟を結んだ(善徳寺の会盟)。65年(永禄8)長子義信がそむいたが,四子勝頼を嫡子にたて,67年義信を切腹させた。68年同盟を破って駿河に進攻,今川氏真(うじざね)を没落させ,後北条氏と戦った。後北条氏とは71年(元亀2)同盟を復活。その後遠江・三河に進攻,72年徳川家康・織田信長軍を破るが(三方原の戦),まもなく死没。内政面では村落掌握を進め,御家人衆・軍役衆を設定。さらに信玄堤で有名な治水事業,甲州金で知られる金山開発を行い,富国強兵に努めた。1547年には「甲州法度之次第」を制定。
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…しかし1520年代に荒廃し,のち妙心寺派の明叔(みようしゆく)慶浚によって復興され,臨済宗妙心寺派寺院となった。その後同じ妙心寺派の禅に帰依していた武田信玄が,64年(永禄7)当寺に快川紹喜を招いて住持とした。この時信玄は,当寺を菩提寺にすると共に寺領300貫文を寄せ寺基を固めた。…
…旧国名。甲州。東海道に属する上国(《延喜式》)。現在の山梨県。
【古代】
古墳時代の甲斐は,前期には曾根丘陵地帯に銚子塚古墳(中道町)などいくつかの前方後円墳が出現し,後期には分布地域が広がり,姥塚(うばづか)(御坂町),加牟那塚(甲府市)など巨大な横穴式石室を持つ円墳も現れた。これら古墳の築造者で,この地の支配者であった甲斐国造(くにのみやつこ)が,大和の政権に貢上した馬は,“甲斐の黒駒”と呼ばれて名高く,その伝統は平安時代に駒牽(こまびき)の行事となった。…
…戦国期に甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信とが,北信濃の領有をめぐって,信濃国水内郡川中島で1553年(天文22)から64年(永禄7)の長期にわたって,数度対戦した合戦の総称。まず武田信玄が信濃の旧族である小笠原氏や村上氏,高梨氏らを信濃に攻め,敗れた村上義清らが越後の長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めたことから両者の戦いが始まった。…
…戦国家法の一つ。戦国大名武田晴信(武田信玄)が1547年(天文16)6月1日に制定した法典。江戸時代の版本に題された〈信玄家法〉という名称で世に知られる。…
…なお小県郡の一土豪であった真田氏は,武田氏被官となり武田氏の領土拡大に伴い,小戦国大名として成長した。 武田氏の信濃制圧は越後の上杉氏にとっても脅威となり,53年以降上杉謙信の信濃国出陣が開始され,武田信玄との数度にわたる川中島の戦がおこった。61年(永禄4)の甲越両軍の総力戦は互角とされるが,合戦後謙信の信濃における根拠は飯山城(飯山市)周辺のみとなり,北信の大部分も武田氏の支配となった。…
…山梨県甲府市にある寺。開山は信州善光寺大本願37代鏡空上人,開基を武田信玄という。山号は定額山といい,俗に甲斐善光寺とか甲府善光寺と呼ばれる。…
…河川こう配の急な河川では,不連続になっている堤防において,上流側堤防の下流部と下流側堤防の上流部とを平行重複して築き,水位こう配の急なことを利用してその堤防の間で水を遊ばせて勢いを弱めたり,上流堤防が破堤しても下流堤防で水害を防ぐ方式のものが築かれている。これを霞(かすみ)堤といい,もともとは山梨県釜無川で武田信玄が編み出した治水工法といわれ,不連続の堤防群が折り重なって連なり,あたかも春霞のたなびくように見えたのでこの名がある。洪水の被害の激しかったところでは,幹川の堤防(本堤)よりも奥へ入ったところに副堤(控堤ともいう)をつくり,本堤が破堤しても被害を最小限におさえるための堤防とした事例もある。…
…66年徳川と改姓。68年今川氏の領国を大井川で折半しようという武田信玄との約束にもとづき義元の子氏真を掛川城に攻め,翌年,氏真の退城によって遠江一国を所領に加えた。 70年(元亀1)上洛し,信長の越前攻めに参加。…
…戦国時代の武将。後北条氏第4代。氏康の子。母は今川氏親の娘。1554年(天文23)相甲駿三国同盟の成立とともに,武田晴信(信玄)の娘を正室として迎え,59年(永禄2)12月に家督を継ぐ。翌60年には飢饉と疫病の流行に対処するため徳政を行い,また代物法度を改定して精銭と地悪銭の法定比率を確立している。61年父氏康とともに長尾景虎(のち上杉輝虎,謙信)の来襲を退けたが,その後,氏康が輝虎と結んだため,晴信の来襲を受けたが撃退した。…
…1572年(元亀3)12月22日に遠江国三方原(現,浜松市)で武田信玄が徳川家康を破った合戦。西上を意図した信玄は10月3日に甲府を出発,10日には青崩(あおくずれ)峠を越えて遠江に入り,一言坂で家康の軍を破った。…
※「武田信玄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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