日本歴史地名大系 「信達庄」の解説 信達庄しんだちのしよう 大阪府:泉南市信達庄現泉南市の中央部から南西部にかけての旧信達村を中心とし、現男里(おのさと)・岡田(おかだ)および現泉南郡阪南(はんなん)町山中渓(やまなかだに)を庄域とした摂関家領庄園。「為房卿記」永保元年(一〇八一)一〇月一一日条に「着和泉信達庄」とみえるのが早く、熊野詣の帰途、藤原為房一行が当庄大工宅に宿泊している。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)の「庄務本所進退所々」のなかに「高陽院領内」「信達庄行有」とあり、家司行有が実務に当たっていたことが知られる。また同目録中の「庄々相承次第」によると藤原頼通―四条宮藤原寛子―藤原忠実へと伝えられ、忠実から娘で鳥羽上皇の皇后となった高陽院藤原泰子へ譲られ、のち近衛家に相伝されたことが知られる。この間、「殿暦」嘉承二年(一一〇七)五月三日条に「和泉国信達庄預兵部大輔師俊母」とみえ、忠実が当庄を源師俊の母に預け支配させている。また「執政所抄」によると、保安元年(一一二〇)一二月には摂関家正月行事用途の薦三〇枚が当庄より進納されている。建長七年一一月日の春日社神人等申状(福智院家古文書)によると、当庄に隣接する吉見(よしみ)庄(現泉南郡田尻町)の春日社神人と、同庄雑掌定慶および下司明村の争論で、明村に同心する吉次なる者が当庄百姓と語らって打擲刃傷に及んだため、春日社神人は「信達庄官百姓等」が、この争論にかかわらないよう訴えている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by