紀伊国(和歌山県)の本宮,新宮,那智の熊野三山に参詣すること。907年(延喜7)の宇多法皇,991年(正暦2)の花山法皇などにはじまり,とくに院政期の白河から後鳥羽上皇までの約100年間には97回もの上(法)皇の御幸があった。熊野への路には紀(伊)路と伊勢路の二つがあったが,いずれも難路であった。このため参詣の道者を案内する先達(せんだつ)が活躍した。紀路の道筋には徭宮としての王子社が平安時代からみられ,1201年(建仁1)にはその数61社に及んだ。鎌倉時代に入ると東国の武士の参詣がみられるようになり,院の参詣は終りを告げる。東国からは熊野社領の荘園の年貢輸送船に便乗しての参詣も少なくなかった。1286年(弘安9),陸奥国(福島県下)の地頭は先達にともなわれて,11月12日に出発し,閏12月27日に帰郷している。熊野は他の社寺と異なり,穢(けが)れについて寛容であったため女性の参詣も北条政子や北条時政の妻などその例が多かった。熊野詣は室町時代に入ると衰退し,文明年間以後には熊野講の存在も確認されなくなる。衰退の原因の一つは参詣の道者を先導した先達が土着しその任を果たさなくなったためであった。ただ,那智の青岸渡寺(せいがんとじ)が観音霊場の第一にあげられ,西国巡礼の徒が熊野を訪れた。西国巡礼を含めても熊野詣は江戸時代中期以降,さらに衰退し,19世紀の文化年間以後は年間1万4000~1万5000人程度であった。伊勢神宮の年間40万という参拝者の数に遠く及ばない。
→熊野街道 →熊野信仰
執筆者:西垣 晴次
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熊野参りとも。和歌山県の熊野三山に参詣すること,またはその人。平安中期頃から修験者たちが修行地として好んで参集した。この修験者の間に教団が編成されて,熊野三山は天台系修験の一大拠点となり,彼らを先達(せんだつ)として平安後期の院政時代には法皇・上皇が頭陀行(ずだぎょう)のためにたびたび参詣した。やがて伊勢路が開かれて,熊野三山と伊勢神宮との関係が説かれるようになると,各地から熊野道者が参集し,「蟻の熊野詣」の諺(ことわざ)をうむほどに盛行した。これに対して三山側では御師(おし)・先達組織を整え,彼らの活躍によって熊野の霊験が宣伝され,熊野詣はますます盛んになった。修験道の色彩が強いが,浄土思想の発展とともに熊野三山を観音の浄土の地と仰ぐ風もみられた。室町中期以降,盛時の面影を失っていった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…神が貴い児童の姿で顕現するという信仰。多くは古来の大社の内部に神が分出し,親子または主人と眷属(けんぞく)との関係に見たてられるため,若宮信仰と共通する点も多い。こうした現象が起こるのは,信仰の固定化を破って,あらたに巫女の活動が生じ,時人を覚醒させる託宣が下されたことを意味する。これが早くかつ顕著に現れた例は,熊野三所権現の場合であり,平安末期には代表的な形である五所王子(若王子,禅師宮,聖宮,児宮,子守宮)の名がみられた。…
…同じころから,これらの寺社領をはじめ多数の荘園が設立された。【薗田 香融】
【中世】
[熊野詣・高野詣の盛行]
院政期になると,上皇・女院および貴族による熊野三山あるいは高野山への参詣が,前代とは比較にならないほど盛んになった。とくに上皇の熊野参詣は回数が多く,後白河上皇は34回にも及び,後鳥羽上皇は平均10ヵ月に1度という頻度である。…
※「熊野詣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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