和泉山脈の一峰、
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
大伝法院(初めは伝法院)は初め高野山内にあり、覚鑁が大治五年(一一三〇)伝法院を開いたのに始まる。覚鑁はこれ以前、高野山内にあって新義教学を提唱し、真言密教に新風をもたらそうとして、まず真言密教の重要な法会である伝法二会(修学会・練学会)の復興を企図していた。そのための料所を求めたところ、大治元年七月、平為里から
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和歌山県岩出(いわで)市根来にある新義真言(しんぎしんごん)宗の総本山。一乗(いちじょう)山根来寺大伝法院と号する。本尊は、大伝法堂(だいでんぼうどう)に安置される大日如来(だいにちにょらい)・尊勝(そんしょう)仏頂・金剛薩埵(こんごうさった)の3尊。高野山(こうやさん)を去った覚鑁(かくばん)はここに移り、円明寺、神宮寺などの諸堂を建立した。覚鑁亡きあと、1288年(正応1)頼瑜(らいゆ)が高野山より大伝法院と密厳院(みつごんいん)を根来に移し、従来の高野山教学とたもとを分かち、新義真言宗が成立するに至った。以後しだいに隆盛し、室町末期には大伝法院、密厳院、円明院をはじめ、坊舎80余、子院堂塔2700余棟を数えるに至り、領地70万石という大大名なみの勢力に発展した。南北朝時代のころから自衛のために僧兵を蓄えるようになり、その勢力は根来寺衆とよばれる武力集団と化し鉄砲を重要な戦力とした。1585年(天正13)豊臣(とよとみ)秀吉の紀州征伐によって多宝塔(大塔)、大伝法堂、大師堂を残し、全山すべて灰燼(かいじん)に帰した。根来の僧たちは京都の智積院(ちしゃくいん)と大和(やまと)(奈良県)の長谷寺(はせでら)に難を逃れて移り、それぞれの地に基礎を置いて新義真言宗智山(ちさん)派・豊山(ぶざん)派となり、両派おのおの全国に3000か寺を統括する学山となった。衰微した根来寺は江戸時代に至り紀伊藩徳川頼宣(よりのぶ)の外護(げご)と、護持院隆光僧正(ごじいんりゅうこうそうじょう)の尽力によってしだいに復興した。多宝塔は1480年(文明12)に着手、1547年(天文16)完成、67年間かかって建立されたもので、日本の木造の大塔のうち最大規模をもち国宝に指定されている。また大師堂は国重要文化財。不動堂には覚鑁が高野山より移した「きりもみ不動」を祀(まつ)る。そのほか光明真言殿、役行者堂(えんのぎょうじゃどう)、聖天堂、本坊、大門などの建物がある。本坊の庭園は国の名勝。当地の根来塗は有名。
[野村全宏]
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和歌山県岩出市にある新義真言宗の本山。根来山大伝法院と号し,根来寺は通称。覚鑁(かくばん)が1132年(長承1)高野山に建てた大伝法院に始まる。34年院宣により覚鑁が大伝法院と金剛峯寺の座主(ざす)を兼務したことで,金剛峯寺の衆徒と争いを生じ,覚鑁は40年(保延6)高野山からこの地に退き,新たに一乗山円明寺を興した。覚鑁の死後も金剛峯寺との対立は続き,ついに1288年(正応1)頼瑜(らいゆ)が高野山より大伝法院と密厳院などをここに移した。これが新義真言宗の別立である。その後,しだいに隆盛となり,聖憲(しようけん)が新義の教学を大成してからは学徒が雲集し,室町時代の末には伽藍は円明寺,大伝法院,密厳院,豊福寺の4区に分かれ,堂塔坊舎は2700余に及んだという。ことに僧兵を擁して威勢強く,近隣の戦国大名とも戦ったが,1585年(天正13)豊臣秀吉の焼討ちにあい,伽藍はほとんど壊滅した。このとき学頭の専誉(せんよ)は長谷寺に入り(豊山(ぶざん)派),玄宥(げんゆう)は京都に智積(ちしやく)院を建て(智山派),それぞれ法灯を継いだ。1623年(元和9)紀州藩主徳川頼宣(よりのぶ)は250石を寄進し,1707年(宝永4)護持院の隆光は将軍綱吉の許可を得て伽藍の修造を図り,97年(寛政9)蓮華院の法住によって大伝法堂再建意趣が作成され,1824年(文政7)完成した。こうして諸堂が再興され,住職は豊山・智山の両派で交替したが,1948年独立して新義真言宗の本山となった。
執筆者:中井 真孝
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和歌山県岩出市にある新義真言宗総本山。一乗山大伝法院と号す。1130年(大治5)覚鑁(かくばん)が高野山に大伝法院・密厳院を創建し,みずから大伝法院座主となったのに始まる。以後,金剛峰寺方との対立が表面化し,1288年(正応元)頼瑜(らいゆ)のとき根来に移転して新義真言宗を分立。最盛期には坊舎2700余,寺領数十万石,僧兵多数を擁する畿内の一大軍事勢力でもあった。1585年(天正13)豊臣秀吉に攻められて焼亡,慶長年間(1596~1615)浅野氏により再興。寺領260石。1515年(永正12)高野山の大塔を模して造られた多宝塔(国宝)は現存するものでは最大。現在は智山派・豊山派から独立した単立の寺院。境内は国史跡。
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…《春日権現験記》や《慕帰絵詞》には高杯や懸盤,鉢などの朱漆器が描かれ,朱漆器はかなり一般化してきた。これらの朱漆器は根来(ねごろ)塗と称されるが,その名は近世以降流布した名称であり,紀州根来寺での当時の漆器生産の実際がどのようなものであったかはっきりと確認されていない。根来塗の技法は黒漆の下塗りに朱漆をかけた簡易なもので,形体も武骨で単純なものだけに長年の常用に耐える堅牢さをもっていた。…
…ところが東寺からの独立を策したため,旧守派の衆徒の反発をかい,両派の激しい抗争の末,根来に下山した。これが後の新義真言宗根来寺(ねごろでら)の起源であるが,覚鑁と行動をともにした衆徒の多くはまもなく帰山し,その後も断続的に金剛峯寺衆徒との抗争を繰り返しながら,大局的には高野山の発展に大きく寄与している。
[荘園の濫立]
1107年(嘉承2)の在庁官人の主張によれば,当時紀伊国の8~9割が荘園化していたという。…
…高野山を拠点とする空海以来の真言宗(古義真言宗)に対し,紀州根来(ねごろ)寺に拠った覚鑁(かくばん)を宗祖とする一派。現在は京都智積(ちしやく)院を本山とする真言宗智山派と,奈良県桜井市の長谷寺を本山とする真言宗豊山(ぶざん)派が二大宗派で,根来寺は別に新義真言宗本山を称する。…
…五百仏頂山と号する。当寺は新義真言宗の拠点紀州根来(ねごろ)寺を再興した寺である。すなわち,根来寺は1585年(天正13)豊臣秀吉により全山が焼討ちにあった。…
…単に朱漆のみを塗布したものでなく,下地に黒漆の中塗りを行い,さらに朱漆の上塗りをほどこして仕上げた朱漆塗製品に限るのが原則である。その名称は紀州根来寺(和歌山県那賀郡岩出町根来)が,多くの子院・房舎を擁して隆盛していた中世期に,山内の膨大な需要に応じて自給自足した漆器に由来する。それらの漆器は長年の用に耐える良質な漆器として定評があったが,とりわけ朱漆塗の椀,折敷(おしき),膳の類は,後世〈根来〉〈根来もの〉〈根来朱〉と呼ばれて喧伝され,やがてそれがすぐれた朱漆器一般に対する通称とされるに至ったのである。…
…根来寺の僧兵集団。教団組織では行人衆をいう。…
…面積=4724.29km2(全国30位)人口(1995)=108万0435人(全国39位)人口密度(1995)=229人/km2(全国29位)市町村(1997.4)=7市36町7村県庁所在地=和歌山市(人口=39万3885人)県花=ウメ 県木=ウバメガシ 県鳥=メジロ近畿地方南西部の県で,北は大阪府,東は奈良県,南東は三重県に接する。北東端の奈良・三重両県の間に北山村が飛地で界在する。
[沿革]
県域はかつての紀伊国の大部分にあたる。…
※「根来寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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