(上杉和彦)
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平安後期の公家(くげ)。世に知足院殿(ちそくいんどの)または富家殿(ふけどの)と称された。関白師通(もろみち)の長子。母は右大臣俊家(としいえ)の女(むすめ)。1088年(寛治2)元服、91年従三位(じゅさんみ)、99年(康和1)父の死によって祖父師実の養子となり、内覧の宣旨を受け、氏長者(うじのちょうじゃ)となる。翌年右大臣。1105年(長治2)白河(しらかわ)法皇の院政下に関白となり、07年(嘉承2)鳥羽(とば)天皇の践祚(せんそ)にあたり摂政(せっしょう)となる。12年(天永3)太政(だいじょう)大臣。翌年天皇の元服により関白となる。20年(保安1)、先に法皇の命を辞退した女(むすめ)泰子の入内(じゅだい)を図り、法皇勘気を被って内覧を止められ、その後10年余を宇治に隠棲(いんせい)する。21年内覧に復したが職を辞し、嫡子忠通(ただみち)がかわった。29年(大治4)法皇の死、鳥羽院政の始まりにより政界に復帰し、40年(保延6)には准三宮(じゅさんぐう)となる。晩年は嫡子忠通が父を退け関白となった不満から次子頼長(よりなが)を露骨に後援したため、兄弟の対立を深めさせたことが保元(ほうげん)の乱の一因ともなった。頼長の敗死により知足院に籠居(ろうきょ)。日記に『殿暦(でんりゃく)』(知足院関白記)がある。『中外抄』はその談話を筆録したものである。
[橋本政宣]
平安後期の廷臣。関白師通の長男。母は右大臣藤原俊家女。1091年(寛治5)三位中将,以後急速に昇進,99年(康和1)父師通が没すると権大納言,左大将で内覧宣旨をうけ,氏長者となった。翌年右大臣,1105年(長治2)関白。07年(嘉承2)堀河天皇没,鳥羽天皇受禅により摂政となった。12年(天永3)太政大臣,翌年大臣辞任,同年天皇の元服により摂政を辞し再び関白となった。のち女泰子(のち高陽院(かやいん))の入内に関して白河院の信任を失い,20年(保安1)内覧停止,翌年関白を辞し宇治に引退,長子忠通が関白・氏長者となった。しかし忠実は鳥羽院政とともに復活し内覧宣旨をうけ,泰子は鳥羽院に入内・立后した。忠通とは不和で,その弟頼長に関白を譲らせようとして果たさず,氏長者を頼長に与え,頼長に内覧宣旨を賜った。40年(保延6)に引退,出家した。56年の保元の乱のとき頼長に同心したが,忠通の計らいで刑を免れ知足院に閉居。知足院殿,富家(ふけ)殿ともいう。日記《殿暦》は院政期の貴重な史料。
執筆者:黒板 伸夫
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1078.12.-~1162.6.18
知足院・富家(ふけ)殿とも。平安後期の公卿。父は師通。1091年(寛治5)従三位。鳥羽天皇の摂政・関白となったが,1120年(保安元)女の泰子の入内をめぐり白河法皇の怒りにふれ,翌年長男忠通に関白・氏長者を譲り宇治に蟄居。29年(大治4)法皇が没すると鳥羽院政下で復帰したが,今度は忠通と対立。次男頼長をたてたが,保元の乱後に知足院に閉居となる。日記「殿暦(でんりゃく)」や「富家語」が現存する。
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…関白太政大臣藤原忠実の談話を大外記中原師元が筆録したもの。書名は筆録者の姓と官職名より各1字をとって後に付けられたものである。…
…太政大臣藤原忠実の日記。《知足院関白記》《知足院殿記》《殿記》などとも称する。…
…説話集。高階仲行(1121‐79)が,富家関白藤原忠実の側近に侍して,忠実の語る故事や故事談を筆録したもの。1151‐61(仁平1‐応保1)の11年間に及び,その前約18年間の談話を筆録した大外記中原師元の《中外抄》2巻と,時期的には最後部がやや重なり,それを受けつぐ形になっている。…
…平安後期の廷臣。関白忠実の長男。母は源顕房女。法性寺(ほつしようじ)殿とよばれた。1107年(嘉承2)元服後急速に昇進し15年(永久3)には内大臣。21年(保安2)父の失脚に替わり関白・氏長者となり,翌年左大臣に転じた。23年崇徳天皇が即位すると摂政となり,28年(大治3)太政大臣,翌年天皇元服後太政大臣を辞し,ついで関白となった。同年白河法皇が没し鳥羽院政となるが,32年(長承1)に父忠実は院宣により内覧を命ぜられて政界に復帰した。…
…平安後期の公卿。世に悪左府,宇治左大臣と称された。関白忠実の次男。母は忠実の家司藤原盛実の女で,いわば妾腹の子である。1130年(大治5)異母兄の摂政忠通の子として朝廷に出仕して以来,官位の昇進をかさね,36年(保延2)17歳で内大臣に昇って世人を驚かせた。またそのころから異常な熱意を学問にそそぎ,ことに儒教の経書の講究に励んで,〈日本第一の大学生(がくしよう),和漢の才に富む〉と評されるまでになった。…
…このため崇徳上皇は皇位継承・執政の望みを完全に絶たれた。一方摂関家では,藤原忠実(ただざね)とその子忠通(ただみち)・頼長(よりなが)兄弟3者の間に対立が生まれていた。初め忠実・頼長父子は鳥羽院に重用され,忠実は関白忠通から内覧(ないらん)を奪って関白の地位を有名無実化させ,氏長者(うじのちようじや)の地位とともにこれを頼長に付与してしまった。…
…そのことを併せ考えると,(3)激しても理性や正気を失わない態度,奇行や非常識な発言を自制することも,〈やまとだましい〉の属性に含めてよいかもしれない。 第4の例は関白藤原忠実の談話を,中原師元が筆録した《中外抄》の久安1年(1145)8月11日条で,父の師通(もろみち)が幼少年時代の忠実を,いい子だが学問をしたがらないのが残念だ,といったとき,大江匡房が,摂政関白になるには必ずしも漢学の才能がなくてもよろしい,〈やまとだましい〉さえすぐれていれば天下を治めることは可能です,と答えたという記事である。藤原忠実が藤原の氏長者(うじのちようじや)として,白河院を中心とする勢力に対抗し,摂関家の威信を高めようとしてその結果,保元の乱が起こったことなどをも考えあわせると,〈やまとだましい〉とは,皇室をも敵に回して対峙する摂関家の政治的能力の属性でもあったともいえよう。…
※「藤原忠実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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