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藤原忠実 ふじわらのただざね

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原忠実
ふじわらのただざね

[生]承暦2(1078).12. 京都
[没]応保2(1162).6.18. 京都
平安時代後期の廷臣。別称,知足院殿,富家 (ふけ) 殿。師通の長男。母は右大臣藤原俊家の娘全子。康和1 (1099) 年父の死後祖父師実の養子となり内覧,氏長者,翌年右大臣,長治2 (1105) 年関白,嘉承2 (07) 年鳥羽天皇の即位によって摂政,天永3 (12) 年太政大臣,翌年関白となったが,次女泰子の入内をめぐって白河法皇と対立し,保安2 (21) 年関白を辞し嫡子忠通がこれに代った。

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デジタル大辞泉の解説

ふじわら‐の‐ただざね〔ふぢはら‐〕【藤原忠実】

[1078~1162]平安後期の公卿。摂政・関白。二男の頼長を推して長男忠通と対立、保元の乱の一因ともなった。頼長の敗死後、知足院に籠居。日記「殿暦(でんりゃく)」がある。

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百科事典マイペディアの解説

藤原忠実【ふじわらのただざね】

平安後期の高官。師通(もろみち)の子。1105年関白,1107年鳥羽天皇摂政,のち関白となる。娘泰子(高陽院)の入内(じゅだい)問題で白河法皇の信任を失い内覧停止,1120年関白を辞し宇治に引退。
→関連項目椋橋荘田仲荘

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原忠実 ふじわらの-ただざね

1079*-1162 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
承暦(じょうりゃく)2年12月生まれ。藤原師通(もろみち)の子。母は藤原全子。康和元年(1099)内覧,氏長者となり関白,摂政,太政大臣を歴任。保安(ほうあん)元年(1120)娘(高陽院(かやのいん))の入内(じゅだい)問題で白河法皇にうとまれて引退。鳥羽院政下で政界に復帰したが,長男忠通(ただみち)と対立して保元(ほうげん)の乱の一因をつくった。故実にくわしく,その談話録に「中外抄」がある。応保2年6月18日死去。85歳。通称は知足院殿,富家(ふけ)殿。日記に「殿暦(でんりゃく)」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原忠実

没年:応保2.6.18(1162.7.31)
生年:承暦2.12(1078)
平安後期の公卿。関白藤原師通と右大臣藤原俊家の娘全子の子。祖父藤原師実の養子。知足院,富家殿と号す。摂関家の嫡男として生まれ,寛治5(1091)年非参議従三位で公卿に列し,同6年権中納言,永長2(1097)年権大納言に昇る。康和1(1099)年,早世した父師通のあとを受け,内覧・藤原氏長者となる。同2年右大臣となり,長治2(1105)年堀河天皇の関白に任ぜられる。嘉承2(1107)年鳥羽天皇の即位とともにその摂政となり,天永3(1112)年太政大臣に任じられる。永久1(1113)年太政大臣を辞し,鳥羽天皇元服により関白となる。娘の泰子(のちの高陽院)の鳥羽天皇入内問題をめぐって,「魚水の契」と評されたそれまでの白河法皇との政治的連携に亀裂が生じたことにより,保安1(1120)年,内覧を停められ,翌年宇治に隠遁。大治4(1129)年の白河法皇没および鳥羽院政開始とともに,朝政への復帰を果たし,その結果,時の関白である長子忠通との間に対立関係が生じた。この対立は,寵愛した次子頼長を内覧・氏長者となしたことにより,決定的なものとなった。保延6年出家,法名円理。忠通と頼長の対立をひとつの要因とする保元の乱(1156)の勃発の際には,頼長方の立場にはあったものの,公然たる加担の姿勢は取らなかった。乱における頼長の敗死後,知足院に籠居。85歳で死去。院権力の台頭により,摂関家の院近臣化が不可避となった状況下,摂関家の権門としての地位の安定化のための家領の保全・『執政所抄』の編纂にみられる故実の整備などに重要な役割を果たした。日記『殿暦』を遺し,大外記中原師元に談話を筆録させた『中外抄』,同じく家司高階仲行 の筆録による『富家語』は,院政期の説話文学興隆に大きな影響を与えた。<参考文献>『大日本古記録/殿暦』5巻解題

(上杉和彦)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのただざね【藤原忠実】

1078‐1162(承暦2‐応保2)
平安後期の廷臣。関白師通の長男。母は右大臣藤原俊家女。1091年(寛治5)三位中将,以後急速に昇進,99年(康和1)父師通が没すると権大納言,左大将で内覧宣旨をうけ,氏長者となった。翌年右大臣,1105年(長治2)関白。07年(嘉承2)堀河天皇没,鳥羽天皇受禅により摂政となった。12年(天永3)太政大臣,翌年大臣辞任,同年天皇の元服により摂政を辞し再び関白となった。のち女泰子(のち高陽院(かやいん))の入内に関して白河院の信任を失い,20年(保安1)内覧停止,翌年関白を辞し宇治に引退,長子忠通が関白・氏長者となった。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのただざね【藤原忠実】

1078~1162) 平安後期の廷臣。師通の子。摂政・関白。白河法皇の死後、摂関家の権威回復に努めた。二男頼長を愛し長男忠通と対立、保元の乱の一因をつくった。乱後、知足院に籠居。日記「殿暦でんりやく」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原忠実
ふじわらのただざね
(1078―1162)

平安後期の公家(くげ)。世に知足院殿(ちそくいんどの)または富家殿(ふけどの)と称された。関白師通(もろみち)の長子。母は右大臣俊家(としいえ)の女(むすめ)。1088年(寛治2)元服、91年従三位(じゅさんみ)、99年(康和1)父の死によって祖父師実の養子となり、内覧の宣旨を受け、氏長者(うじのちょうじゃ)となる。翌年右大臣。1105年(長治2)白河(しらかわ)法皇の院政下に関白となり、07年(嘉承2)鳥羽(とば)天皇の践祚(せんそ)にあたり摂政(せっしょう)となる。12年(天永3)太政(だいじょう)大臣。翌年天皇の元服により関白となる。20年(保安1)、先に法皇の命を辞退した女(むすめ)泰子の入内(じゅだい)を図り、法皇勘気を被って内覧を止められ、その後10年余を宇治に隠棲(いんせい)する。21年内覧に復したが職を辞し、嫡子忠通(ただみち)がかわった。29年(大治4)法皇の死、鳥羽院政の始まりにより政界に復帰し、40年(保延6)には准三宮(じゅさんぐう)となる。晩年は嫡子忠通が父を退け関白となった不満から次子頼長(よりなが)を露骨に後援したため、兄弟の対立を深めさせたことが保元(ほうげん)の乱の一因ともなった。頼長の敗死により知足院に籠居(ろうきょ)。日記に『殿暦(でんりゃく)』(知足院関白記)がある。『中外抄』はその談話を筆録したものである。[橋本政宣]

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世界大百科事典内の藤原忠実の言及

【中外抄】より

…関白太政大臣藤原忠実の談話を大外記中原師元が筆録したもの。書名は筆録者の姓と官職名より各1字をとって後に付けられたものである。…

【殿暦】より

…太政大臣藤原忠実の日記。《知足院関白記》《知足院殿記》《殿記》などとも称する。…

【富家語】より

…説話集。高階仲行(1121‐79)が,富家関白藤原忠実の側近に侍して,忠実の語る故事や故事談を筆録したもの。1151‐61(仁平1‐応保1)の11年間に及び,その前約18年間の談話を筆録した大外記中原師元の《中外抄》2巻と,時期的には最後部がやや重なり,それを受けつぐ形になっている。…

【藤原忠通】より

…平安後期の廷臣。関白忠実の長男。母は源顕房女。法性寺(ほつしようじ)殿とよばれた。1107年(嘉承2)元服後急速に昇進し15年(永久3)には内大臣。21年(保安2)父の失脚に替わり関白・氏長者となり,翌年左大臣に転じた。23年崇徳天皇が即位すると摂政となり,28年(大治3)太政大臣,翌年天皇元服後太政大臣を辞し,ついで関白となった。同年白河法皇が没し鳥羽院政となるが,32年(長承1)に父忠実は院宣により内覧を命ぜられて政界に復帰した。…

【藤原頼長】より

…平安後期の公卿。世に悪左府,宇治左大臣と称された。関白忠実の次男。母は忠実の家司藤原盛実の女で,いわば妾腹の子である。1130年(大治5)異母兄の摂政忠通の子として朝廷に出仕して以来,官位の昇進をかさね,36年(保延2)17歳で内大臣に昇って世人を驚かせた。またそのころから異常な熱意を学問にそそぎ,ことに儒教の経書の講究に励んで,〈日本第一の大学生(がくしよう),和漢の才に富む〉と評されるまでになった。…

【保元の乱】より

…このため崇徳上皇は皇位継承・執政の望みを完全に絶たれた。一方摂関家では,藤原忠実(ただざね)とその子忠通(ただみち)・頼長(よりなが)兄弟3者の間に対立が生まれていた。初め忠実・頼長父子は鳥羽院に重用され,忠実は関白忠通から内覧(ないらん)を奪って関白の地位を有名無実化させ,氏長者(うじのちようじや)の地位とともにこれを頼長に付与してしまった。…

【大和魂】より

…そのことを併せ考えると,(3)激しても理性や正気を失わない態度,奇行や非常識な発言を自制することも,〈やまとだましい〉の属性に含めてよいかもしれない。 第4の例は関白藤原忠実の談話を,中原師元が筆録した《中外抄》の久安1年(1145)8月11日条で,父の師通(もろみち)が幼少年時代の忠実を,いい子だが学問をしたがらないのが残念だ,といったとき,大江匡房が,摂政関白になるには必ずしも漢学の才能がなくてもよろしい,〈やまとだましい〉さえすぐれていれば天下を治めることは可能です,と答えたという記事である。藤原忠実が藤原の氏長者(うじのちようじや)として,白河院を中心とする勢力に対抗し,摂関家の威信を高めようとしてその結果,保元の乱が起こったことなどをも考えあわせると,〈やまとだましい〉とは,皇室をも敵に回して対峙する摂関家の政治的能力の属性でもあったともいえよう。…

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