日本歴史地名大系 「催促町」の解説 催促町さいそくちよう 群馬県:館林市館林城下催促町[現在地名]館林市台宿町(だいじゆくちよう)・朝日町(あさひちよう)館林城下の北部、南北に縦貫する日光脇往還沿道の台宿町南端付近、加法師の法輪(かぼうしのほうりん)寺北裏より東の同法高(ほうこう)寺脇に至る延長約一五〇メートルの東西に延びる道路両側をよぶ。延宝二年(一六七四)の城下町図に「催促町入口幅弐間九尺」とある。この付近には前記二寺のほか延命(えんめい)院・観音院・広済(こうさい)寺(以上廃絶)、円教(えんきよう)寺などが集まる寺町であった。宝永七年(一七一〇)頃の万聞書(山田文書)によると、天正一八年(一五九〇)入部した榊原康政は、当時城北にあった城下町を城西の館野(たての)ヶ原に移す計画をたてたが、その実施の段階で当地は西端の辺地であるところから西側(さいそく)町とされ、後世音が通じるところから誤って催促町とされたというが、確証はない。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by