入田沢村
いりたざわむら
口田沢村の南西に位置し、小樽川上流の山間地に立地。八谷街道(米沢―大峠―喜多方を結ぶ)に沿う。小樽川は当地南部の山間地を源とし、山峡を北東流して館山で大樽川と合流。途中普洞沢・荒沢など谷水を合流している。近世初期には田沢村のうち。寛永八年分限帳には入田沢村がみえ、香坂太郎左衛門の給地があった。正保郷帳に村名がみえ、田四〇二石余・畑一九五石余。元文四年(一七三九)の「山林台帳」によれば松尾沢ほか二ヵ所の山林がある。これら山々は米沢城下の薪の供給源で、小樽川・鬼面川・木場川を流して城下木場町に水揚げした。上杉領村目録によれば高五五〇石余、本免二ツ六歩、反別田三三町二反余・畑一一町六反余(天明三年改)、塩地平と戸張里下に二分されていて、塩地平は家数三七・人数二〇二、馬二七、戸張里下は家数二二・人数一三二、馬一六。
入田沢村
いりたざわむら
[現在地名]新鶴村沼田
田沢川扇状地の扇頂部にあたり、北東は出戸田沢村、南西山中に出戸田沢村端村の沼山がある。柳津村(現柳津町)への裏道が村内を通る。天正一七年(一五八九)一二月一四日の伊達政宗充行状(八角神社文書)に「太沼之内、入田沢七貫文」とあり、当地などが八角神社(現会津若松市)別当宝寿院に与えられている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一七二石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」では高一七二石余、免六ツ四分五厘、家数二六、竈三一、男七一・女六五、馬一八で、「村之営、薪ヲ伐商売ス、六月ニ至テ湯殿山行人ノ駄賃ヲ取ル」と記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 