沼田村(読み)ぬまたむら

日本歴史地名大系 「沼田村」の解説

沼田村
ぬまたむら

[現在地名]峰浜村沼田

大間越おおまごし街道に沿い、日本海岸の砂丘上にある。東に強坂ごうざか村・田中たなか村、南に栗山くりやま村・須田すだ(現能代市)、北に高野野こうやの村がある。

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「先には八森海道に罷有候処に砂埋に罷成移」とある。宝暦三年(一七五三)の落合浜野谷地草飼水沢薪山書附控(沼田部落文書)には「元禄八亥年当村より願候者二十五年以前本郷並支郷浜野谷地共ニ砂埋ニ罷成住居相叶不申候ニ付村居御引替被成下度」とあり、村の移動を寛文一〇年(一六七〇)としている。飛砂の被害はその後も続き、寛政元年(一七八九)の砂留御普請御答書郷中控(沼田部落文書)によれば、当高二一六石余のうち四三石余が砂埋り捨り高で、休高を除くと残高は一三九石余にすぎなかった。家数も宝暦頃の八〇軒余が、明和二年(一七六五)には六八軒になり、天明の飢饉によって三八軒まで減少したという。

落合浜野谷地草飼水沢薪山書附控によれば、宝暦三年の当高一七八石余、家数五八軒、人数三二四人、馬数九七匹。


沼田村
ぬまたむら

[現在地名]足立区江北こうほく一―七丁目・西新井にしあらい五丁目など

荒川左岸に広がり、北は谷在家やざいけ村、東は高野こうや村、南は本木もとき村、西は堀之内ほりのうち村。北条氏所領役帳には千葉殿(武蔵千葉氏)の所領として下足立「沼田村」三五貫文がみえる。元亀三年(一五七二)と推定される正月九日の北条家着到定書(豊島宮城文書)には三六人の着到を課された宮城四郎兵衛尉(泰業)の所領のなかに「沼田之内屋敷分」一五貫文がある。なお「吾妻鏡」嘉禄二年(一二二六)四月二〇日条に鎌倉幕府政庁内で武蔵国御家人沼田四郎父子が白井太郎父子と争い、ともに死亡した記事が載る。沼田氏は当地を本貫とする武士と推定される。


沼田村
ぬまたむら

[現在地名]南足柄市沼田

東境をかり川、南境を分沢ぶんざわ川が流れて東で合流し、西は三竹山みたけやま村、北は岩原いわはら村と接し、東を甲州道が南北に通る。応永二九年(一四二二)八月一八日の道光(大森頼春)供料寄進状(県史三)で「さかみの国かのゝしやうの内ぬまたのかう」が駿河二岡にのおか神社(現静岡県御殿場市)に寄進されている。

近世は小田原藩領。寛永初期の小田原領西筋村々高ノ帳の石高一二四石余に対して、元禄郷帳は二五一石余、天保郷帳は三二〇石余に増加している。


沼田村
ぬまたむら

[現在地名]御殿場市沼田

南流する黄瀬きせ川を挟んで萩蕪はぎかぶ村の東に位置する。村域は箱根はこね外輪山の裾野に広がり、二子ふたご村から北上し、東田中ひがしたなかおか新田に通り抜ける道が中央を縦断する。本村と笹塚ささづか新田(現在の諸久保)の二つの集落からなり、延宝五年(一六七七)東田中村との村境争論文書(東田中区・二の岡区共有文書)によれば、笹塚新田小山おやま(現小山町)の孫右衛門によって寛永一八年(一六四一)に開発されたという。


沼田村
ぬまたむら

[現在地名]村田町沼田

白石しろいし川水系あら川支流の沼田川に沿った山間にあり、東の関場せきば村方面以外は山に囲まれ、北は薄木うすぎ村、西は刈田かつた矢付やづき(現蔵王町)、南は新寺につてら(現大河原町)。大昔この辺りの低地は沼で、しだいに干上り水田となったため、泥土が深く、村名となったという。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「十七〆仁百文 ぬま田」「五貫文 ひかしぬま田」とみえる。東沼田は不明。同二二年集成の晴宗公采地下賜録によれば、沼田など三郷の棟役・段銭・諸公事免除の権利などが沼辺玄蕃に与えられた。正保郷帳では田五〇貫三二〇文・畑一四貫六一二文、ほかに新田七貫八文。寛文元年(一六六一)の田村右京分村付帳(一関市立図書館蔵)では、岩沼城主田村宗良の本知七一貫九四〇文・本除屋敷四一一文・除屋敷八五文・新田五五文。


沼田村
ぬまたむら

大正一一年(一九二二)上北竜村が改称して成立し、昭和二二年(一九四七)まで存続した雨竜うりゆう郡の村。大正七年から昭和三年まで帝国製麻株式会社工場があり、亜麻の作付面積が増えた。大正一一年四月、当地の開発に功績のあった沼田喜三郎にちなみ、沼田村と改称されたが、これは留萌線の敷設を契機に、華族組合農場色の払拭を意図したものという。同年藤沢土功組合が結成された。


沼田村
ぬたむら

[現在地名]山陽町沼田

すな川の支流十七じゆうしち川の左岸、日古木ひこぎ村の南に位置する。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)鳥取ととり庄に沼田村とある。寛永備前国絵図では高四九六石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高五五五石余。貞享元年には年々開方などを加えて五九七石余、同年の荒や在宅士屋敷などを引いた残高五六七石余。「備前記」には枝村八軒屋はつけんやが載る。享保六年(一七二一)には田畠四〇町四反余、家数六六・人数三六四、池四、村の東部に四ッ堂がある(備陽記)


沼田村
ぬまたむら

[現在地名]筑波町沼田

国松くにまつ村の南東に位置。上坪かみつぼ・中坪・下坪に分れる(新編常陸国誌)。江戸時代には山根やまね八ヵ村の一つで、領主は神郡かんごおり村と同じであったが、元禄六年(一六九三)に村高三二〇・五六石余をもって筑波山つくばさん神社(中禅ちゆうぜん寺)領となって廃藩置県に及んだ(「徳川綱吉朱印状」筑波山神社蔵)。寛保元年(一七四一)の石高反別書上帳(飯村吉彦文書)によると、村高三五五・三一八石。


沼田村
ぬまたむら

[現在地名]江戸崎町沼田

犬塚いぬつか村の東南に位置し、花指はなさし川と清水しみず川に挟まれた地にある。中世は信太しだ庄に属した。江戸初期に鳥羽藩内藤氏領(寛文朱印留)となるが、のち下総関宿藩領となり、幕末は関宿藩領六八九石余(各村旧高簿)清水川を望む台地上にある縄文後期の沼田貝塚の西南側に天台宗の永平山吉祥きつしよう院、曹洞宗の応供山常晃じようこう寺、大同年間(八〇六―八一〇)の創建と伝える鹿島神社があり、常晃寺の境内には江戸崎城主土岐景盛の墓がある。


沼田村
ぬまだむら

[現在地名]西目町沼田

西目川中流、盆地状に広がる水田地帯の西側中央にあり、東は川を挟んで船岡ふなおか(現本荘市)、北は海士剥あまはぎ村、南は西目村に接する。東北に西目潟が広がっていたが、天保六年(一八三五)干拓された。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に沼田村四五一石とある。


沼田村
ぬただむら

[現在地名]金屋町沼田

延坂のぶさか村の西北にある生石おいしヶ峰山腹の集落。「続風土記」には「北に長嶺あり後に延坂あり、その中間の谷にて沼多けれは沼田の名あり」とある。慶長検地高目録によれば村高一三三石余。本堂ほんどうにある生石明神(現五名生石神社)の氏下で、元和四年(一六一八)の生石明神の勧進帳(上続家蔵)には当村の寄進者二〇名が記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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