内藤新宿番衆町(読み)ないとうしんじゆくばんしゆうちよう

日本歴史地名大系 「内藤新宿番衆町」の解説

内藤新宿番衆町
ないとうしんじゆくばんしゆうちよう

[現在地名]新宿区新宿五丁目

明治二年(一八六九)の品川県編入に際し、正受しようじゆ院・成覚じようかく北側の旧百人組与力大縄地、留守居組鉄砲角場、出雲母里藩松平氏下屋敷などを合せて成立。正保江戸絵図では一帯は留守居牧野内匠の同心屋敷、久世三四郎の与力屋敷となっている。沿革図書によると延宝年中(一六七三―八一)には東端部に小出忠左衛門・徳永左兵衛の屋敷があり、ほかは百人組与力大縄地を挟んで留守居組屋敷が二ヵ所設定されている。享保二〇年(一七三五)には東部の留守居組屋敷が分割され、この中央部を南北に貫く道敷ができ、その東西に黒鍬者大縄地ができる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...

苦肉の策の用語解説を読む