勝竜寺村(読み)しようりゆうじむら

日本歴史地名大系 「勝竜寺村」の解説

勝竜寺村
しようりゆうじむら

[現在地名]長岡京市勝竜寺・久貝くがいしろさと

小畑おばた川が村内を貫流し、西は調子ちようし村・友岡ともおか村、北は神足こうたり村。

村名は村内にある勝竜寺によるが、正嘉二年(一二五八)七月八日付の沙弥修覚田地売渡状(古文書集)に「沽却 私領田地三箇所事 合段者、在山城国乙訓郡内」として「一所槻本里廿二坪北縄本壱段之次四段」「一所同里廿九坪北縄本弐段」「一所午方里□□壱段半折□字洲崎云々」が記され、「已上為根本中堂別僧供領、毎年段別所当米壱斗令備進外、全無公事、 右件田者、沙弥修覚之相伝私領也、然而依直要用、銭拾貫文、限永年、為勝竜寺沽却実也」とある。この売渡状は条里制復元の一史料として利用される。午方里に記される洲崎すざきの字名は下植野しもうえの(現乙訓郡大山崎町)小畑川かつら川の合流点付近に現存する。

元応元年(一三一九)の勝竜寺梵鐘銘には「神足郷勝竜寺」と記され、この頃にはまだ神足郷の一部とされていたようであるが、戦国時代には「神足・水(垂)赤井・上野・山崎・勝竜寺・古川」などと記され、独立した村名として登場する(年月日未詳「某奉書案」九条家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報