明智光秀(読み)アケチミツヒデ

デジタル大辞泉 「明智光秀」の意味・読み・例文・類語

あけち‐みつひで【明智光秀】

[1528ころ~1582]安土桃山時代の武将。織田信長に仕え、近江おうみ坂本城主。天正10年(1582)京都の本能寺に主君信長を襲って自害させたが、まもなく山崎で羽柴秀吉に敗れ、敗走の途中で農民に殺された。→本能寺のへん
鷲尾雨工による歴史小説。昭和13年(1938)刊。

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精選版 日本国語大辞典 「明智光秀」の意味・読み・例文・類語

あけち‐みつひで【明智光秀】

  1. 安土桃山時代の武将。日向守。通称十兵衛。のち惟任(これとう)と改名。織田信長に仕え、戦功により近江坂本城主となる。天正一〇年(一五八二)信長を本能寺に襲い自害させたが、一一日後、山城山崎で羽柴秀吉と戦って敗れ、小栗栖(おぐるす)で土民に殺された。享祿元~天正一〇年(一五二八‐八二

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改訂新版 世界大百科事典 「明智光秀」の意味・わかりやすい解説

明智光秀 (あけちみつひで)
生没年:1528?-82(享禄1?-天正10)

安土桃山時代の武将。明智氏は美濃土岐の一族だが,光秀は初め越前の朝倉義景に仕え,そして足利義昭が朝倉氏のもとに流寓したとき出仕し,ついで織田信長の家臣となり義昭の上洛に尽力,義昭と信長に両属して申次(もうしつぎ)を務め,京都の施政にも関与した。室町幕府滅亡後は信長に登用され征服戦に参加,1571年(元亀2)近江坂本城主となり,75年(天正3)惟任(これとう)日向守と称し,丹波の攻略に着手,79年八上城の波多野秀治らを下して平定し,80年亀山城主となり,ついで細川藤孝,筒井順慶,中川・高山諸氏を与力として付属され,京都の東西の要衝を掌握,美濃・近江・丹波の諸侍や幕府旧臣を中核とする家臣団を形成した。彼は故実・典礼に通じ,民政にすぐれ,茶湯・連歌を好む理性的で教養豊かな武将だったところに特色があり,1579年誠仁(さねひと)親王の二条御所移徙(いし),81年京都馬揃の奉行を務め,また1573年越前の支配を行い,80年大和の寺社本所領指出(さしだし)を,81年丹後の検地を実施する一方,精緻(せいち)な軍法を制定した。そして82年春甲州征伐に従軍,5月徳川家康穴山梅雪の接待を命ぜられ,つづいて中国征伐を支援するため出陣を命ぜられたので亀山において軍容を整え,6月1日夜出発したが,翌2日黎明信長を京都本能寺に襲い,織田信忠を二条城に囲んで敗死させた(本能寺の変)。この行動は信長の虚を突いた絶妙の作戦であったが,予想外に早く反撃してきた羽柴(豊臣)秀吉に山城山崎の戦で敗れ,逃走の途中小栗栖(おぐるす)で土民に殺された。彼が信長を弑逆(しいぎやく)した原因には,怨恨,前途に対する不安,政権欲,武士の面目維持などの諸点が指摘されているが,長い間機会をうかがったうえで決行したわけではなかった。法名は明窓玄智。妻は妻木範凞(のりひろ)の女。系図類では数子を数えるが,確認されるのは2男3女である。イエズス会士の記録によれば長子はヨーロッパの王侯に比するほど優美な貴公子だったという。女子では細川忠興(ただおき)の妻となったキリシタン女性ガラシャ(実名玉)が有名である。
執筆者:

光秀のイメージは,江戸時代の文学や芸能における一連の〈太閤記物〉を通じて形成される。その場合,実名を使用するのをはばかって,光秀は武智光秀の名で登場する。ちなみに織田信長を尾田春永,羽柴秀吉は真柴久吉といいかえられるのが約束であった。それら〈太閤記物〉のなかで光秀像を決定づけたのは,1799年(寛政11)初演の浄瑠璃絵本太功記》であろう。この作品は歌舞伎では翌1800年に上演されている。ここでは,光秀の春永への諫言,それに対する報復として森蘭丸に鉄扇で光秀の額を傷つけさせる場面,光秀の四天王が謀反を勧めるくだり,光秀親子の別れなど,光秀を悲劇性の濃い主人公とする挿話がふんだんにもりこまれていた。春永を悪役とし,さらにそれに謀反を企てるもう一人の悪役を配することで,光秀のイメージは複雑な陰影を帯びることになった。このような光秀像は,のちの鶴屋南北の歌舞伎台本《時桔梗出世請状(ときもききようしゆつせのうけじよう)》(1808初演)において,いっそう鮮明になる。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「明智光秀」の意味・わかりやすい解説

明智光秀
あけちみつひで
(?―1582)

安土(あづち)桃山時代の武将。光綱の子、通称十兵衛。美濃(みの)国(岐阜県)の人。守護土岐(とき)氏の支族と伝えるが明らかでない。越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕え、のち織田信長に従う。将軍足利義昭(あしかがよしあき)の臣細川藤孝(ふじたか)(幽斎(ゆうさい))とともに、つねに義昭と信長の間を取り持ち、公家(くげ)たちとの交渉にも鮮やかな手腕を発揮した。1571年(元亀2)近江(おうみ)坂本に築城し、各地の戦いに参加するとともに、京都の民政をつかさどった。そのなかでも武人としてとくに力を尽くしたのは、丹波(たんば)、丹後(たんご)地方の経略である。1575年(天正3)6月信長の命により丹波の経略に着手。当初は国人(こくじん)も多く味方し、11月には氷上(ひがみ)郡中部の黒井城まで進むことができた。ところが翌1576年正月八上(やがみ)城の波多野秀治(はたのひではる)の叛(はん)により、丹波一円の抵抗が強まった。その後丹波以外にも適時動員されたが、鋭意丹波の攻略を続け、4年後の1579年にはもっとも強く抵抗した八上城を陥れた。その後細川藤孝を助けて丹後地方も平定した。1582年5月、毛利討伐のため中国出兵を命ぜられたときには、西江州(ごうしゅう)、丹波を直轄領とし、丹後の細川藤孝、大和(やまと)の筒井順慶(つついじゅんけい)、摂津の高山、中川、池田の諸将を組下とし、近畿を統率する地位に上っていた。ところが同年6月2日、本能寺に泊っている信長の警護の手薄なのに乗じて突然これを襲い自刃させ、ついでその長男信忠(のぶただ)を二条城で倒した。しかし羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉があまりにも早く毛利氏と和して東上したために計画が狂い、山崎で秀吉らの連合軍と戦い、13日夜敗死した。享年55歳とも57歳ともいう。世にいう「明智の三日天下」である。山崎の戦いの際の光秀の本陣跡は京都府大山崎町下植野の共同墓地付近と考えられ、その拠(よ)ったと思われる土塁と周濠(しゅうごう)の跡も、サントリー工場内で発掘調査により確かめられた。

[中山修一]

『高柳光寿著『明智光秀』(1958・吉川弘文館)』『桑田忠親著『明智光秀』(1973・新人物往来社)』


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朝日日本歴史人物事典 「明智光秀」の解説

明智光秀

没年:天正10.6.13(1582.7.12)
生年:享禄1?(1528)
安土桃山時代の武将。美濃土岐氏の支族というが不詳。美濃明智庄の出身でこの姓をとなえ通称十兵衛。はじめ越前の朝倉義景に仕え,義景を頼った足利義昭と共に,織田信長のもとに赴き,義昭に仕えた細川藤孝と共に入京を工作して名をあらわした。従って信長の家臣であると同時に義昭にも奉仕した。永禄11(1568)年の信長入京に当たっても,義昭のため公家側に働きかけ,翌12年は木下藤吉郎(豊臣秀吉),丹羽長秀らと軍政に能力を示し,公家寺社領仕置や庶政にも携わった。信長と義昭対立のときも両者の間に立って斡旋した。元亀1(1570)年信長の摂津,近江の出陣に従い,同2年近江滋賀郡を領して坂本築城を始め,同3年浅井氏の小谷城の包囲に参加,天正1(1573)年越前朝倉氏攻略にも加わり同国の庶政も担当,同2年大和多聞山城を守備,美濃,河内に転戦,同3年8月功により九州の名族惟任姓と日向守を与えられた。 信長の統一過程が西に向かうと丹波攻略の先鋒となり,多紀郡八上城に波多野秀治を攻め,さらに紀州雑賀の一向一揆に対し,大和信貴山城に松永久秀を滅ぼし,再び丹波八上城を攻め,その間秀吉を救援して播磨に出陣して神吉城を陥れ,ひるがえって八上城波多野秀治を降し,丹波攻略を完成,一国支配を認められた。天正8年は4月備中の秀吉を助け,9月大和の滝川一益に協力し大和寺社本所の所領差出を命じ,9年8月因幡鳥取城攻撃にも秀吉を援け,丹後の検地を断行,10年甲州の武田勝頼攻撃に従う。4月安土に帰陣すると,徳川家康の饗応役を命ぜられたが,その直前に備中高松城包囲に救援に向かうことになった。光秀の東奔西走の労を顧みない信長につよく反発,一旦本拠坂本城に戻り,亀山城(亀岡)に入り,ここで愛宕山に詣り謀反を決意した。同年6月1日備中出陣の名目で1万3000の軍兵を率い亀山城を発して,老ノ坂で天下取りを表明,本能寺を急襲,信長を自刃せしめ,二条御所に信忠も自滅させた(本能寺の変)。直ちに人心収攬の手を打ったが,機敏な秀吉の反転を6月13日山崎に迎えて敗れ,一旦勝竜寺城に入り再起を期して坂本に向かう途,小栗栖で土民の襲撃によって自刃。法名秀岳宗光。<参考文献>高柳光寿『明智光秀』

(林屋辰三郎)

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百科事典マイペディア 「明智光秀」の意味・わかりやすい解説

明智光秀【あけちみつひで】

安土桃山時代の武将。通称十兵衛,のち惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と称す。美濃(みの)の土岐氏の一族。織田信長に重用され,京都の庶政をつかさどったり,丹波(たんば)攻略などに活躍。1582年信長を京都本能寺に襲撃し自殺させたが(本能寺の変),豊臣秀吉山崎の戦で敗れ,敗走の途中土民に殺された。細川ガラシャはその娘。
→関連項目雄琴春日局亀岡[市]亀山清洲会議光明寺福知山細川忠興

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明智光秀」の意味・わかりやすい解説

明智光秀
あけちみつひで

[生]享禄1(1528).美濃
[没]天正10(1582).6.13. 京都
安土桃山時代の武将。通称十兵衛。天正3 (1575) 年九州の旧族惟任の称号を与えられ日向守。父は光綱。その前身は判然としないが,美濃の土岐氏の支流といわれ,また美濃明智荘に居住し明智と称したという。初め斎藤氏に仕え,流浪ののち永禄9 (1566) 年織田信長に仕えた。翌年,滝川一益に従い北国征伐に参加し,信長上洛に際しては村井貞勝らとともに京都の政務にあたり,信長の信任を受けた。元亀2 (1571) 年,若狭平定の軍功により,近江坂本城主となり,滋賀郡を領した。のち朝倉氏が滅亡し,越前が平定されると,柴田勝家らと同国の経営を行ない,天正5年には信長の命で丹波に進撃して,丹波経略に尽力した。その後も荒木村重,松永久秀の反乱や紀伊雑賀の一向一揆,また武田勝頼征伐などの諸戦に従軍。同 10年信長より徳川家康の功をねぎらうための接待役を命じられたが,その準備なかばで,さらに羽柴秀吉への援軍を命じられ,憤激して帰国し,丹波亀山城から兵を整え上洛し,6月2日信長を本能寺で討つにいたった (→本能寺の変 ) 。しかしその後の収拾策は遅滞し,光秀謀反に中国路より転進して上洛する羽柴秀吉に対して,味方と頼んだ蒲生賢秀,細川忠興,筒井順慶らはいずれも参陣せず,京畿地方の人心の収攬も成功しないまま,13日山崎の戦いで秀吉に大敗,近江坂本に帰る途中,小栗栖 (おぐるす) で殺害された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「明智光秀」の解説

明智光秀 あけち-みつひで

1528-1582 戦国-織豊時代の武将。
享禄(きょうろく)元年生まれ。細川ガラシャの父。美濃(みの)(岐阜県)の土岐氏の一族とされる。故実,典礼に通じた教養ゆたかな武将で,はじめ朝倉義景(よしかげ)につかえ,のち織田信長の家臣となって足利義昭の上洛に尽力。義昭や寺社,公家との交渉役をつとめる。元亀(げんき)2年近江(おうみ)坂本城主となり,惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)と称した。丹波攻略などに功をたて,亀山城主となる。天正(てんしょう)10年信長を本能寺に討つが,羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れて逃走中の6月13日農民に殺された。55歳。通称は十兵衛。
【格言など】仏の嘘(うそ)をば方便といい,武士の嘘をば武略という。是を以て之を見れば,土民百姓は可愛きことなり

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「明智光秀」の解説

明智光秀
あけちみつひで

?~1582.6.13

織豊期の武将。十兵衛。日向守。朝倉義景に仕えていた1568年(永禄11),足利義昭の織田信長上洛依頼に参画した。上洛が実現すると,京都支配に政治力を発揮し,義昭に属しながら信長に仕えた。信長軍として各地を転戦し,71年(元亀2)近江国坂本城主となり,75年(天正3)惟任(これとう)の名字を得,信長の丹波攻略の先鋒となった。79年平定終了後,丹波一国支配を認められた。82年信長が中国赴援に向かったおりに,京都の宿所の本能寺を襲撃し,戻って近江・美濃を支配下においた(本能寺の変)。しかし豊臣秀吉の反撃をうけ,山崎の戦で敗れ,山城国小栗栖(おぐるす)(現,京都市伏見区)で自刃した。女の玉(ガラシャ)は細川忠興の室。

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旺文社日本史事典 三訂版 「明智光秀」の解説

明智光秀
あけちみつひで

?〜1582
安土桃山時代の武将
通称十兵衛。美濃(岐阜県)の守護土岐氏の一族。織田信長に仕え,1571年近江坂本に築城,近江国を領有し,日向守となった。'79年丹波の波多野氏を討ったが,この際の処置を信長にきびしく叱責された。'82年信長の中国攻めの途中,本能寺にこれを攻めて自殺させたが,豊臣秀吉との山崎の戦いに敗れ,敗走の途中,農民に殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の明智光秀の言及

【織田信長】より

…そして翌82年木曾義昌の来属を機に甲斐・信濃に侵入,武田勝頼を田野に敗死させ,信濃・甲斐・上野に部将を分封して国掟を与えた。ついで神戸信孝らに四国征伐を命じ,6月中国征伐の指示を与えるため上洛し本能寺に宿泊したところを明智光秀に急襲されて2日朝自殺,信忠も二条城で敗死した(本能寺の変)。 織田政権の軍事的特質は加地子(かじし)領主として農業経営から分離しうる濃尾地方の地侍・有力名主層を中核に軍団を編成し,鉄砲・長槍で武装,専業武士団として機動性を与えたところにあった。…

【亀山】より

…口丹波の交通の要地。地名の起りは1579年(天正7)明智光秀が築城して亀山城と名付けたことによる。城郭は大堰川右岸の台地にあり,城下町はその南部に建設されたが,人家を移住させた柏原(かせばら),三宅,古世などの9ヵ村を母体に,惣外堀内に取り込んだ城下町16町と城下外の4町で構成された。…

【時桔梗出世請状】より

…1808年(文化5)7月江戸市村座初演。先行の浄瑠璃《祇園祭礼信仰記》《三日太平記》《絵本太功記》などに拠りながら武智光秀(明智光秀)が主君小田春永(織田信長)を本能寺で討つまでの経緯を主軸に脚色した作品(太閤記物)。序幕は祇園社拝殿から饗応仮御殿までの5場で,光秀が蜘蛛の振舞いを見て怪しむくだりは饗応仮屋の木戸前の場,春永が蘭丸に鉄扇で光秀の眉間を割らせるのが饗応仮御殿の場。…

【福知山[市]】より

…平安時代末期から中世にかけては皇室領六人部(むとべ)荘,松尾社領雀部(ささいべ)荘など,いくつもの荘園が置かれていた。1579年(天正7)に明智光秀が横山城を改修して福智山城と名付け(のち福知山と改める),城下町が形成された。また京都や綾部,山陰と結ぶ街道の宿駅,由良川の河港として水陸交通の要衝であった。…

【細川ガラシャ】より

…諡号(しごう)は秀林院。明智光秀の次女。母は妻木勘解由左衛門範凞女。…

【本能寺の変】より

…1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自殺させた事件。羽柴(豊臣)秀吉の備中高松城攻防をめぐって織田・毛利両軍が全面的に対決する局面を迎えた信長は,とりあえず堀秀政を派遣するとともに明智光秀に出陣を命じ,みずから近臣を伴って5月29日上洛した。…

【山崎の戦】より

…1582年(天正10)6月13日羽柴(豊臣)秀吉,織田信孝らが山城乙訓郡山崎付近で明智光秀を破った戦い。備中高松城を攻囲中に本能寺の変を知り直ちに毛利氏と講和,6日播磨姫路に帰った秀吉は,摂津の諸将を糾合して富田に着陣,信孝らの兵を合わせ,軍を山手,中手道筋,川手の三手に分け13日進撃し,一方これより前に山崎の天王山を占領させていた。…

※「明智光秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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