長岡京市(読み)ナガオカキョウシ

デジタル大辞泉 「長岡京市」の意味・読み・例文・類語

ながおかきょう‐し〔ながをかキヤウ‐〕【長岡京市】

長岡京

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日本歴史地名大系 「長岡京市」の解説

長岡京市
ながおかきようし

面積:一九・二四平方キロ

京都盆地の西南に位置する。最高四九〇メートルの摂津(現大阪府)との国境の山地が西側にそばだって急傾斜の断層崖を京都盆地に向け、その山麓の段丘・丘陵が市西部を占め、東部・東南部は古くはかつら川氾濫原の低地で、最低は標高一〇メートル。南は乙訓おとくに大山崎おおやまざき町に接し、摂津や西国と京都を結ぶ交通の要地で、久我畷こがなわて・西国街道が市域内を通過する。奈良時代の山陰道も市内を東南から西北に縦断していたと推定されている。

市名は延暦三年(七八四)から一一年間都であった長岡京に由来する。ただし長岡宮の所在地は向日むこう市にあり、また遷都に先立って同年五月一六日に藤原種継らに調査させた「長岡村」も向日市である。当市は長岡京条坊の、右京ではほぼ二条以南、左京ではほぼ四条以南、八条以北にあたる。延暦七年一一月一四日付六条令解(古梓堂文庫文書)に「合家地壱処長十五丈広十丈在三坊 長岡京」とみえる。「和名抄」高山寺本の鞆岡ともおか郷・長井ながい郷・石川いしかわ郷が市域内に比定されるが、長井・石川二郷は詳細不明。「延喜式」神名帳に記す乙訓郡一九座のうち「乙訓坐大雷神社ヲトクニニマスオホイカツチノ走田ハシリタノ神社・御谷ミタニノ神社・神足カウダニノ神社」が市域内に比定される。また同主税式にみえる山城国正税・公廨三千束を支給される海印かいいん寺も市内にあった。

〔原始〕

今里いまざと遺跡では先土器時代ナイフ形石器が出土し、下海印寺しもかいいんじ遺跡からも先土器時代の石器が出土している。縄文時代に入ると、下海印寺遺跡からは多数の石鏃と並んで石錘が出土し、狩猟のほか漁労も行われていたことが判明する。縄文中期から晩期の土器は、今里遺跡・下海印寺遺跡などから出土し、今里遺跡では住居跡が現れ、信仰用具の石棒も発見されている。

縄文時代の生活を一変させた水稲耕作は、京都盆地ではくもみや遺跡から始まった。瀬戸内海を東進してきた水稲耕作を伴う弥生文化は、淀川水系をさかのぼって大阪府高槻たかつき市に安満あま遺跡を残し、次いで雲ノ宮に根付いたのである。今里遺跡・神足こうたり遺跡では竪穴住居跡方形周溝墓が調査されている。神足遺跡では大小の方形周溝墓と土壙墓が併存し、水稲耕作の開始とともに身分差が顕著となっていったことを示している。

やがて古墳の構築が始まるが、当市は前期の前方後円墳から終末期の群集墳に至る各時期の各様式がそろって古墳の宝庫をなしている。前期を代表するのは長法寺南原ちようほうじみなみはら古墳で、多数の副葬品のうち四面の三角縁神獣鏡は椿井大塚山つばいおおつかやま古墳(現相楽郡山城町)出土の鏡と同笵関係にあり、大和朝廷に連なった大きな権力をもつ首長墓が想定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長岡京市」の意味・わかりやすい解説

長岡京〔市〕
ながおかきょう

京都府南部の市。 1972年市制。市名は延暦3 (784) 年に桓武 (かんむ) 天皇がこの地付近に造営した長岡京に由来。桂川右岸の沖積平野と,その西の台地,丘陵にまたがる。台地,丘陵上は,たけのこ採取のためのモウソウチクの林が多い。京都や大阪への交通の便に恵まれ,1960年代から急速に宅地化が進行。電機,機械,製紙などの工業も行われる。史跡恵解山 (いげのやま) 古墳,ツツジの名所長岡天満宮をはじめ,浄土宗西山派の光明 (こうみょう) 寺には木造千手観音立像,真言宗の乙訓 (おとくに) 寺には木造毘沙門天立像の重要文化財がある。名神高速道路をはじめ JR東海道本線,阪急電鉄京都線が通る。面積 19.17km2。人口 8万608(2020)。

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