北城市(読み)きたいばらきし

日本歴史地名大系 「北城市」の解説

城市
きたいばらきし

面積:一八六・四一平方キロ

県の北東端に位置し、南は高萩市に接する。山地が海岸に迫り、平地は少ない。東は太平洋の海岸線が長い砂浜と砂防林の美しい景観を示し、とくに北部は海食性段丘の奇観を呈する。西北は阿武隈高地南端の多賀山地で、和尚おしよう(八〇四メートル)花園はなぞの(八〇二メートル)鷹巣たかのす(五五九・四メートル)高帽たかぼう山などが連なり、山地が太平洋に落込む斜面に丘陵性の洪積台地沖積低地が続く。多賀山地に発する里根さとね川・花園川・大北おおきた川・塩田しおた川は東流して太平洋に注ぎ、流域には平坦地が開けるが、市総面積の約七割は山林原野である。海岸線に沿って南北に国鉄常磐線と国道六号(岩城相馬街道)が並行して通じ、国道からは県道が分岐して山側へ延びる。

〔原始・古代〕

先土器時代の細原さいばら遺跡がある。縄文時代遺跡のほとんどが台地上に位置し、中期・後期のものが多い。流域ごとにおもな遺跡をあげると、里根川水系に上野台うえのだい遺跡・八塚はちつか遺跡・蛭田ひるた遺跡・清水しみず遺跡・小高山おだかやま遺跡、花園川水系に石沢いしざわ遺跡・上台うえのだい遺跡、大北川水系に台畑だいはた遺跡・花地はなち遺跡、塩田川水系に糠塚ぬかづか遺跡・細原遺跡があり、大津おおつ町の海岸段丘面にまつさき貝塚・宮東みやひがし遺跡がある。弥生時代遺跡は縄文遺跡と複合しているものが多い。神岡上かみおかかみ遺跡・足洗あしあらい遺跡が知られ、とくに足洗遺跡は標高五メートルほどの砂地の微高地周辺から、数個の合せ口甕棺・壺棺と供献土器を出土し、茨城県弥生時代中期末の足洗式土器の標準遺跡となっている。

古墳時代の遺跡も縄文・弥生遺跡と複合しているものが多く、海岸段丘上および丘陵性台地上に広く分布する。おもな遺跡に矢指塚やさしづか古墳群・天王塚てんのうづか古墳群・糠塚古墳・二ッ島ふたつじま横穴群・台畑古墳群がある。これらは五世紀から八世紀の築造と考えられ、当地方が五世紀頃から大和朝廷の勢力下にあったことを示す。祭祀遺跡立野たての遺跡がある。

市域は「常陸国風土記」に記す多珂たか国の中央部に位置したと思われ、七世紀後半には多珂郡に属し、「和名抄」に載る多珂郡八郷のうちあわ(粱)郷・高野たかの郷・新居にいい郷がほぼ当市域に比定される。

律令制による棚島たなしま駅の設置は養老二年(七一八)ないし三年頃と考えられ(高萩市史)、弘仁三年(八一二)に廃止された(日本後紀)。その所在は、天妃てんぴ山および周辺海浜の古地名を桁藻たなめ山・田辺磯たなべいそということ、助川すけがわ藻島めしまに続く常陸国海道駅継の最終で、ここから勿来なこそ関を抜け陸奥の海道一〇駅に接続することなどを考え、現磯原いそはら町に比定する説がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報