小田原征伐(読み)オダワラセイバツ

デジタル大辞泉 「小田原征伐」の意味・読み・例文・類語

おだわら‐せいばつ〔をだはら‐〕【小田原征伐】

天正18年(1590)、豊臣秀吉小田原城を包囲して、北条氏政氏直父子を攻め滅ぼした戦い

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精選版 日本国語大辞典 「小田原征伐」の意味・読み・例文・類語

おだわら‐せいばつをだはら‥【小田原征伐】

  1. 天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉北条氏政・氏直父子を攻め滅ぼした戦い。九州征伐の後、全国統一をはかる秀吉は、大・小名を動員して小田原城に籠城する後北条氏を攻撃、包囲百余日で降した。この間に、奥州の伊達政宗も秀吉のもとに参じ、事実上の全国制覇がなった。小田原の役。

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百科事典マイペディア 「小田原征伐」の意味・わかりやすい解説

小田原征伐【おだわらせいばつ】

1590年豊臣秀吉が天下統一のため最後の独立的大勢力たる小田原の北条氏(後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と,強力な物量作戦を展開し,関東の北条氏の支城を次々と落とし,本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲降伏せしめた。この結果奥州諸大名も降伏,全国統一が完成
→関連項目小田原評定葛西・大崎一揆蒲生氏郷川越城雑賀孫市相模国走湯山徳川家康韮山城北条氏政増田長盛

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小田原征伐」の意味・わかりやすい解説

小田原征伐
おだわらせいばつ

1590年(天正18)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が小田原(神奈川県小田原市)を本城とする北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)父子を攻撃し滅亡させた戦い。後北条(ごほうじょう)氏は戦国時代の風雲に乗じた伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)(北条早雲(そううん))を祖とし、5代にわたって関東と伊豆一帯を制覇した戦国大名であったが、中央の政治情勢の推移から独立し東国を抑えていた。すでに九州を平定して全国統一に乗り出した秀吉はしばしばその上洛(じょうらく)を促したが、氏政らは肯(がえん)じなかった。上州(群馬県)の名胡桃城(なぐるみじょう)の帰属をめぐって真田(さなだ)氏と対立した氏直が出兵したことを機として、秀吉は前年1589年末に天下に北条討伐を命じ、西国の大名や水軍をも動員し、先鋒(せんぽう)には徳川家康をあてて東海道、東山道から進攻させ、山中、足柄(あしがら)、韮山(にらやま)、岩槻(いわつき)、鉢形(はちがた)、八王子、館林(たてばやし)、忍(おし)などの支城を包囲、攻撃させた。秀吉は、1590年3月、自ら小田原城を望む早川対岸の石垣山に本営を構え、籠城(ろうじょう)策をとる北条方を陸海から包囲して武威を示した。3月末から約100日に及ぶ攻撃のため、北条軍の士気は阻喪し、とくに重臣松田憲秀(まつだのりひで)らの内応もあったため、6月末についに北条氏政以下が降伏した。秀吉は、氏政と弟氏照(うじてる)を自決させ、当主氏直を許し高野山(こうやさん)に追放、松田憲秀、大道寺政繁(だいどうじまさしげ)の重臣を斬(き)った。また戦後、北条氏の旧領をすべて家康に与え、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、三河の旧領から絶縁させて江戸に移らせた。この戦陣中、伊達政宗(だてまさむね)も秀吉に来応して屈服、この戦(いくさ)によって天下統一が完成した。

[福田以久生]


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改訂新版 世界大百科事典 「小田原征伐」の意味・わかりやすい解説

小田原征伐 (おだわらせいばつ)

1590年(天正18)豊臣秀吉が関東最大の戦国大名後北条氏を滅ぼして全国統一を完成させた戦い。九州征伐後秀吉は,北条氏政・氏直父子にも上洛を促したが,彼らは関東制覇の実績にもたれて秀吉の力を評価できず,上洛に応じなかった。1589年秀吉は,後北条氏の上野名胡桃(なくるみ)奪取契機に,諸大名を動員し,後北条氏討伐を下令した。後北条氏は,上杉謙信武田信玄に対して成功した,本拠相模小田原城での籠城策を採用した。しかし,検地刀狩により兵農分離を進めた秀吉は,後北条氏に対して圧倒的な武力の差を有し,90年4月小田原城を包囲するとともに,関東各地の支城を攻略。7月,小田原城に孤立した氏直は降伏した。氏政らは自害,氏直は高野山に追放されて後北条氏は滅び,その旧領は徳川家康に与えられた。この戦いの結果,奥羽諸大名も帰服し,秀吉の全国統一が一応完成をみた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小田原征伐」の意味・わかりやすい解説

小田原征伐
おだわらせいばつ

天正 18 (1590) 年,豊臣秀吉が,北条氏政北条氏直らを攻め,これを滅ぼした戦い。秀吉は,同 13年関白となり,同 15年には九州征伐を終えて全国平定を志し,同 17年 11月,北条氏討伐の令を諸国に発し,翌 18年4月3日,相模の平地に入って小田原城を包囲し,持久戦に入った。北条方はこれに対する評議が容易に決せず (後世,これを「小田原評定」という) ,その間秀吉方へ内応するものも多く現れた。秀吉は,6月 24日,和議の策を進め,一方韮山の北条氏規も小田原城内に入って氏政らに和議をすすめるにいたった。7月5日,氏直は,氏政以下将士の許されることを条件に降伏を申出たが,秀吉は,氏直の死を許し,氏政以下老臣らに死を命じることをもってのぞんだ。同月 11日,氏政,氏照らは自殺し,氏直は高野山に放たれて北条氏は滅亡した。やがて奥羽の伊達氏もこの機に服し,ここに秀吉の全国平定は完成する。

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世界大百科事典(旧版)内の小田原征伐の言及

【下野国】より

…その一つは中世以来の領主層の清掃であり,他は新しい基準による土地支配原則の樹立である。下野国でその役割を果たしたのが小田原征伐であり,太閤検地であった。
[中世領主の没落]
 豊臣秀吉の小田原征伐は1590年4月からはじまり,下野を代表する領主たちは,家運を賭しての二者択一をせまられた。…

【箱根[町]】より

…この道から,鞍掛山の頂上で北東に分かれ大観山,坊山,白銀(しろがね)山,聖(ひじり)岳,石垣山を通って小田原に通じる道が,いわゆる〈関白道〉あるいは〈太閤道〉である。1590年(天正18)の小田原征伐に際して豊臣秀吉が通ったことによるという。この道筋の白銀山から南に真鶴(まなづる)半島に向かって下る道が,石橋山敗戦後源頼朝の通った道といい〈頼朝道〉と称している。…

※「小田原征伐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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