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小田原征伐 おだわらせいばつ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

小田原征伐
おだわらせいばつ

天正 18 (1590) 年,豊臣秀吉が,北条氏政北条氏直らを攻め,これを滅ぼした戦い。秀吉は,同 13年関白となり,同 15年には九州征伐を終えて全国平定を志し,同 17年 11月,北条氏討伐の令を諸国に発し,翌 18年4月3日,相模の平地に入って小田原城を包囲し,持久戦に入った。

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デジタル大辞泉の解説

おだわら‐せいばつ〔をだはら‐〕【小田原征伐】

天正18年(1590)、豊臣秀吉小田原城を包囲して、北条氏政氏直父子を攻め滅ぼした戦い。

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百科事典マイペディアの解説

小田原征伐【おだわらせいばつ】

1590年豊臣秀吉が天下統一のため最後の独立的大勢力たる小田原北条氏後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と,強力な物量作戦を展開し,関東の北条氏の支城を次々と落とし,本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲,降伏せしめた。
→関連項目小田原評定葛西・大崎一揆蒲生氏郷川越城雑賀孫市相模国走湯山徳川家康韮山城北条氏政増田長盛

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世界大百科事典 第2版の解説

おだわらせいばつ【小田原征伐】

1590年(天正18)豊臣秀吉が関東最大の戦国大名後北条氏を滅ぼして全国統一を完成させた戦い。九州征伐後秀吉は,北条氏政・氏直父子にも上洛を促したが,彼らは関東制覇の実績にもたれて秀吉の力を評価できず,上洛に応じなかった。1589年秀吉は,後北条氏の上野名胡桃(なくるみ)奪取を契機に,諸大名を動員し,後北条氏討伐を下令した。後北条氏は,上杉謙信武田信玄に対して成功した,本拠相模小田原城での籠城策を採用した。

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大辞林 第三版の解説

おだわらせいばつ【小田原征伐】

1590年豊臣秀吉が小田原城に北条氏政・氏直父子を攻め滅ぼした戦い。これにより秀吉の全国制覇が完成した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

小田原征伐
おだわらせいばつ

1590年(天正18)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が小田原(神奈川県小田原市)を本城とする北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)父子を攻撃し滅亡させた戦い。後北条(ごほうじょう)氏は戦国時代の風雲に乗じた伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)(北条早雲(そううん))を祖とし、5代にわたって関東と伊豆一帯を制覇した戦国大名であったが、中央の政治情勢の推移から独立し東国を抑えていた。すでに九州を平定して全国統一に乗り出した秀吉はしばしばその上洛(じょうらく)を促したが、氏政らは肯(がえん)じなかった。上州(群馬県)の名胡桃城(なぐるみじょう)の帰属をめぐって真田(さなだ)氏と対立した氏直が出兵したことを機として、秀吉は前年1589年末に天下に北条討伐を命じ、西国の大名や水軍をも動員し、先鋒(せんぽう)には徳川家康をあてて東海道、東山道から進攻させ、山中、足柄(あしがら)、韮山(にらやま)、岩槻(いわつき)、鉢形(はちがた)、八王子、館林(たてばやし)、忍(おし)などの支城を包囲、攻撃させた。秀吉は、1590年3月、自ら小田原城を望む早川対岸の石垣山に本営を構え、籠城(ろうじょう)策をとる北条方を陸海から包囲して武威を示した。3月末から約100日に及ぶ攻撃のため、北条軍の士気は阻喪し、とくに重臣松田憲秀(まつだのりひで)らの内応もあったため、6月末についに北条氏政以下が降伏した。秀吉は、氏政と弟氏照(うじてる)を自決させ、当主氏直を許して高野山(こうやさん)に追放、松田憲秀、大道寺政繁(だいどうじまさしげ)の重臣を斬(き)った。また戦後、北条氏の旧領をすべて家康に与え、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、三河の旧領から絶縁させて江戸に移らせた。この戦陣中、伊達政宗(だてまさむね)も秀吉に来応して屈服、この戦(いくさ)によって天下統一が完成した。[福田以久生]

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世界大百科事典内の小田原征伐の言及

【下野国】より

…その一つは中世以来の領主層の清掃であり,他は新しい基準による土地支配原則の樹立である。下野国でその役割を果たしたのが小田原征伐であり,太閤検地であった。
[中世領主の没落]
 豊臣秀吉の小田原征伐は1590年4月からはじまり,下野を代表する領主たちは,家運を賭しての二者択一をせまられた。…

【箱根[町]】より

…この道から,鞍掛山の頂上で北東に分かれ大観山,坊山,白銀(しろがね)山,聖(ひじり)岳,石垣山を通って小田原に通じる道が,いわゆる〈関白道〉あるいは〈太閤道〉である。1590年(天正18)の小田原征伐に際して豊臣秀吉が通ったことによるという。この道筋の白銀山から南に真鶴(まなづる)半島に向かって下る道が,石橋山敗戦後源頼朝の通った道といい〈頼朝道〉と称している。…

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