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デジタル大辞泉
「大和朝廷」の意味・読み・例文・類語
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大和朝廷
やまとちょうてい
4~7世紀の日本の国家形成に際し,その中心となった中央組織。地理的には大和国(現在の奈良県)が考えられるが,「魏志倭人伝」に見える邪馬台国の所在地や,記紀神話(→古事記,日本書紀)に見える国家の東遷説も関連する。3世紀の日本について魏志倭人伝は 30余国の小国家が分立していたことを記しているが,その後の文献で,それらがしだいに統合され 4世紀末には大和,河内を中心とする地方に強力な統一国家が成立し,朝鮮にまで出兵するにいたった,とある。また『宋書』には 5世紀に中国の宋と国交のあったことが記されている。これが大和国家とも呼ばれるもので,『宋書』に見える倭の五王は記紀に記された天皇とみられ,個々の比定には異論もあるが,倭王の武が雄略天皇である点はほぼ定説となっている。したがって,天皇を中心とする大和朝廷が 4世紀末頃に近畿地方に成立していた可能性が高い。3世紀の卑弥呼が都とした邪馬台国は「ヤマト」とも読めるため,これを大和朝廷の起源とする説もあるが,それには所在地に九州説と大和説とがあり問題が多い。大和朝廷の成立については神武天皇を初代とする伝承が記紀に見えるが,実際には第10代の崇神天皇が初代の天皇であったとする説が有力である。崇神天皇は三輪に都し,大神神社(おおみわじんじゃ)と関係が深かったため,ミワ王朝と呼ぶ説もある。次に,世界的に大きな前方後円墳で知られる応神天皇,仁徳天皇を中心とするナニワ王朝が河内を中心として成立しており,これが『宋書』にいう倭の五王の時代にあたるものとみられる。さらに一部の学者には,北方アジアの遊牧民族が朝鮮半島を経て日本に上陸したという騎馬民族説をミワ王朝あるいはナニワ王朝にあてる者もいる。応神,仁徳王朝に次いで越前の三国(みくに)から興った継体天皇が今日の皇室の起源をなしたとする説が有力である。崇神王朝を古王朝,応神,仁徳王朝を中王朝,継体王朝以後を新王朝とも称する。大和朝廷は大和を中心として各地の諸豪族を宗教的,軍事的に圧倒し,しだいにその勢力範囲を拡大してゆき,大化改新を経て律令国家(→律令制)の成立を迎えた。(→日本史)
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やまとちょうてい【大和朝廷】
日本の古代,大和において天皇を頂点として政権が組織され,この政権によって国家が統治されたから,これを大和朝廷とよぶ。ただし,律令制の成立により藤原京,平城京に経営された政権は通常大和朝廷とはよばず,律令制以前の磯城(しき)・磐余(いわれ)地方にはじまり,飛鳥(あすか)地方におよぶ各時代に営まれた政権,正確にいえば飛鳥浄御原宮あたりまでを大和朝廷と称するのが一般である。またこの期間中においても,大和における〈王権〉と〈朝廷〉の概念を区別する必要がある。
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世界大百科事典内の大和朝廷の言及
【騎馬民族】より
… ところで江上波夫は,以上の遊牧騎馬民族のほかに,北東アジアの農主牧副民系または半農半猟民系の騎馬民族として,夫余,高句麗,靺鞨(まつかつ),渤海(ぼつかい),女真,満州などをあげている。そして夫余や高句麗と関係ある北東アジア系の騎馬民族が,まず南朝鮮を支配し,やがてそれが弁韓(任那)を基地として北九州に侵入し,さらには畿内に進出して大和朝廷を樹立し,日本における最初の統一国家を実現した。そしてこのようにして畿内に樹立された征服王朝,騎馬民族国家が,その社会,政治,軍事,文化の各方面において,中央ユーラシアから東北アジアの騎馬民族国家のそれと,全体的に,かつ本質的に一致するという〈騎馬民族日本征服説〉を唱えた。…
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