日本の古代において,律令法の体系を基軸として形成された国家統治の体制をいい,良・賤の身分制度,中央集権的な官僚制国家機構,国家的土地所有を基礎とする公民支配などをその基本的な特徴とする。7世紀の後半,近江令(存在を否定する説もある),飛鳥浄御原令の編纂を通じて基礎が固められ,701年(大宝1)の大宝律令の制定・施行によってほぼその完成をみた。以後この体制が大きく変質する10世紀ごろまでの間を特に律令制の時代または律令時代と称し,この時期の国家を律令国家と呼んで前後の時代とは区別している。以下その諸方面にわたる制度のおもなものについて概観する。
律令制身分制度はすべての人民を良・賤の二つの身分に大別することを特徴とする。良賤間の通婚は禁ぜられ,その所生子は原則として賤とされる定めであった(良賤法)。養老令の規定では,賤民に陵戸(りようこ),官戸(かんこ),家人(けにん),官奴婢(ぬひ)(公奴婢),私奴婢の5種があり(五色の賤),それぞれ同一身分内部で婚姻しなければならないという当色婚の制度が定められていたが,このうち陵戸は大宝令では雑戸(ざつこ)の一種としてまだ賤とはされていなかった可能性が強い。雑戸は品部(しなべ)とともに前代の部民(べみん)の一部が律令制下になお再編・存続させられ,それぞれ特定の官司に隷属して特殊な労役に従事させられたもので,そのため身分上は良民でありながら,社会的に一般公民とは異なる卑賤な存在として意識された。治部省被官の諸陵司(のち諸陵寮)に隷属した陵戸も,本来良民に属するものでありながらいち早く同様の経過をたどり,養老律令の編纂時には明確に賤として位置づけられるに至ったと考えられる。
他の4種の賤のうち官戸・官奴婢は朝廷所属の官賤で,家人・私奴婢は私賤である。前者の供給源は犯罪による没官者などであるが,官奴婢は66歳に達するか廃疾(はいしつ)を得た場合には免ぜられて官戸となり,さらに76歳に至れば(反逆縁坐の者は80歳)解放されて良民とされる規定であった。身分法上,官戸と家人,官奴婢と私奴婢はそれぞれほぼ同等の地位にある。前者は後者より上級の身分で,奴婢が牛馬と同じく主人の財物としての取扱いを受けたのに対し,前者は家族を構成して自家のための再生産を行うことが認められており,したがって売買されることもなく,また家族全員が同時に使役されることもなかった。ただし,このような官戸・家人は唐の官戸・部曲(客女)についての規定を参考として机上で案出された賤民身分である可能性が強く,寺家人の例を除き,籍帳をはじめとする当時の実態的な史料の上にはまったくその姿を現さない。むしろ史料上に奴婢とされるものの中にかえって家族的結合が認められるなど,律令の家人(官戸)に近い存在のものが含まれていたと考えられる。8世紀前半の各地の籍帳による統計では,奴婢は全人口の4.1%しか存在せず,官奴婢や中央の貴族・寺院の奴婢を加えてもその割合は10%にも満たなかったと推測される。
以上のような賤民と良民とを区別する重要な標式は姓(せい)の有無である。律令制下において姓をもたないのは,身分秩序の形成者,姓の賜与者としての天皇(および皇族)と賤民だけであり,すべての良民は天皇への人格的な隷属関係の象徴である姓を付与されていた(ただし僧尼籍にあるものは,その限りにおいて俗人としての姓をもたない)。この意味において良民はすべて天皇に対し理念的に同一の身分を形成するものであったが,その内部は実際には支配階級である貴族・官人層と被支配階級である一般公民層とに大きく分裂していた。
律令国家の支配身分を表示するものは各種の位階である。そのうち品位(一品~四品)は親王・内親王に授けられる位階で,諸王には一位~五位,諸臣には一位~初位の位階が授けられた(内位)。王臣の位階は一位~三位がそれぞれ正・従に,四位~八位は正・従がそれぞれ上・下に,初位は大・少がそれぞれ上・下に細分されており,合計30階からなるが,これらの有位者は官位の相当制によってその位階に応じた官職に任ぜられ,天皇の官僚として国家機構の維持・運営にあたったのである。このほか正五位上~少初位下の20階には別にそれに相当する外位(げい)(外正五位上~外少初位下)が設けられており,郡司,軍毅(ぐんき),国博士,国医師などの外考の官職につくものに授けられた。これらの官職は地方の豪族層以下のものの任用を前提としており,外位は中央豪族層からは差別されたそれらの階層を主たる対象として設けられたものである。さらにまた,位階制の体系の中に占める位置は低いが,軍功あるものに授けられた12等の勲位(くんい)の制度も存在していた。
皇親はもちろんのこと,有位者はその位階に応じて諸種の身分的特権を有していた。八位以上および勲位八等以上のものは課役(かえき)(調(ちよう),庸(よう),雑徭(ぞうよう))を全免され,初位・勲位九等以下のものでも庸,雑徭が免除されたこと,また刑法上においても官位・勲位に応じて議,請,減,贖あるいは官当(かんとう)という刑罰軽減の特典を有したことなどはその基本的なものであるが,有位者層内部にあっては,五位以上の上級官人と六位以下の下級官人との間に特に大きな身分・待遇上の断層が存在した。例えば五位以上の官人には,位階に応じて位田,位封(もしくは位禄),位分資人(しじん)が与えられ(親王・内親王には品田,品封,帳内(ちようない)),さらに大納言以上(令制)の官職にあるものには職田,職封,職分資人が与えられるなどの特典が存在したが,重要なのは蔭位(おんい)の制によって,そのような特権的支配身分が同一階層内において再生産される構造となっていたことである。蔭位の制とは父祖の位階に応じて子孫が一定の位階を与えられる制度をいうが,蔭子孫(おんしそん)(皇親および五位以上のものの子孫)と位子(いし)(内六位~八位のものの嫡子)・白丁(はくてい)との間には蔭位の制を始めとする厳然たる出身法上の差別が存在し,両者の階層間の壁は容易に乗り越えがたいものであった。さらにまた外位を与えられ,外考の職に任ぜられた地方豪族層と内位・内考の中央官人層との間にもさまざまな身分上の処遇差が存在したが(課役の免除等については外位も同じ),これは律令国家が天皇を中心とする畿内豪族層の全国支配の体制として歴史的に形成されてきた経緯によるものである。このように律令国家の支配身分を表示する位階の体系の中には複雑な階層差が内包されていたが,そのような枠組みを通じて,大和政権以来の中央有力豪族層は五位以上の上級官人を世襲的に再生産しうる貴族階級としての地位を維持しつづけたのであり,そこに位階制に基礎づけられた律令官僚制の本質が存在した。
天皇を中心とする支配階級は,きわめて整然とした体系制をもつ中央集権的な国家機構を通じて全国の土地・人民を支配した。まず中央には天皇の居所,官庁の所在地,官人の居住地として,整然とした条坊区画をもつ都城が営まれた。そこに具現された律令中央官制にはまず祭祀をつかさどる神祇官,国政一般をつかさどる太政官(だいじようかん)の二官があったが,前者もまた後者の統轄下にあり,太政官が国家統治の最高機関としての地位を有していた。太政官内には,左右大臣・大納言からなる議政官組織(太政大臣は非分掌の職であり即闕の官)のもとに左右弁官局・少納言局の三部局が存在し,左弁官は中務(なかつかさ)・式部・治部・民部,右弁官は兵部・刑部・大蔵・宮内の各省をそれぞれ統轄した。いわゆる二官八省制で,各省の下にはそれぞれ職,寮,司と呼ばれる被管官司が従属し,例えば民部省(被管は主計寮,主税寮)が全国の土地・人民や財政のことをつかさどるなど,それぞれ政務を分掌した。またこれとは別に,行政を監察し,官人の非違を糾弾する弾正台(だんじようだい),宮城・京師の警衛にあたる五衛府(衛門府,左右衛士府,左右兵衛府),左右馬寮,左右兵庫,内兵庫などの諸官司が置かれており,さらに後宮には女官からなる十二司,皇太子には春宮坊が付属していた。これら諸官司には原則として長官,次官,判官,主典の四等官がおかれ(官司によってはこれ以外に各種の品官が加わる),さらにその下には史生,伴部,使部などの雑任(ぞうにん)が所属していたが,四等官制による職務分掌の原則は単に中央官司だけではなく,地方諸官司にも貫徹している。
次に京師には,朱雀大路を挟んで東側に左京職(被官は東市司),西側に右京職(被管は西市司)が置かれ,左右京内の政務一般をつかさどったが,左右京それぞれの各条には京職の雑任である坊令1人が任ぜられ,さらに条内の各坊ごとに白丁の坊長1人が置かれて京内戸口の把握や調・雑徭の催駆にあたった。
律令地方官制は一般に国,郡,里(のち郷と改称)の3段階の行政組織に編成され,それぞれ国司,郡司,里長が置かれたが,そのほか地域によっては難波津を管する摂津職(ただし,793年(延暦12)廃されて摂津国となる),西海道の行政と辺防・外交事務のことにあたる大宰府(だざいふ)などの特殊な官司が置かれていた。これらの官司の官人と同様,国司もまた中央官人が交替で赴任する官で,諸国に設けられた国府にあって地方社会の統治に臨んだ。これに対して郡司は在地の有力豪族層が任ぜられた官位非相当の終身官で,国司の監督下にあって律令制支配を実現するための各種の職務を遂行した。律令国家の公民支配の基本的単位は戸(こ)であり,50戸を1里に編戸して1里1巻の戸籍を作成したが,里長はその50戸中の有力戸から選ばれ,里内の戸口の把握,勧農,調・庸・雑徭の催駆などの役目を負わされていた。
全国は京師を中心に,それを取りまく畿内(きない),さらに中央と地方を結ぶ幹線道路である駅路に沿って七道(東海,東山,北陸,山陰,山陽,南海,西海の各道)に区分されていた。駅路にはほぼ一定の間隔で駅(うまや)が設置され,駅馬が置かれたが,それとは別に諸国内の各郡衙には伝馬(てんま)が備えられ,駅馬とあわせて中央・地方を公用で往来する官人の乗用に供された。このような駅伝制による律令交通制度の整備は国郡制による律令国家の全国統治を支えるもので,中央の命令が迅速に諸国に伝達されるとともに,諸国の政務内容もまた四度使(よどのつかい)(朝集使,大帳使,貢調使,税帳使)などのもたらす多数の公文によって,たえず中央に報告された。
軍制についてはまず諸国には律令制軍事組織の基本をなす軍団が置かれていた。軍団はふつう1000人の兵士(ひようじ)をもって構成され,国司の監督下にあったが,指揮官である大毅・少毅には一般に地方豪族が任命された。兵士は5人を1組とし(伍),50人で隊を構成しており,弓馬に巧みなものは騎兵隊,残りは歩兵隊とされた。隊には隊正(五十長)が置かれ,その上に2隊100人を領する旅帥(百長),さらに4隊200人を領する校尉(二百長)が置かれていた。兵士は通常軍団や国府に上番し,武芸の訓練を受けるとともに,国府をはじめとする国内要所の警備や犯罪人の追捕などにあたったが,征討のおりには軍団兵士を動員して征討軍が組織され,大将軍,将軍,副将軍などが任命された。また兵士の中からは筑紫に遣わされて辺防の任にあたる防人(さきもり)(実際はもっぱら東国の兵士からとられる),京師に送られて宮城・京師の警衛にあたる衛士(えじ)が差点された。衛士は五衛府のうちの左右衛士府・衛門府に配属されたが,衛門府にはほかに特定の名負氏(なおいのうじ)からなる門部(かどべ)が所属していた。また左右兵衛府には郡司の子弟や位子からなる兵衛(ひようえ)が配属され,天皇の身辺警固の任にあたった。
律令制司法制度については行政と司法は未分離で,諸官司は行政組織であるとともに司法組織でもあり,犯罪の発生地点の管轄関係,刑罰の軽重等によっておのおの定められた権限内での裁判と刑の執行にあたった。刑罰には笞(ち)・杖(じよう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の五刑があり,さらに20等に細分されていたが,謀反など,国家の支配秩序を乱す8種の罪は八虐(はちぎやく)として特に重いものとされた。
律令制土地制度は国家的土地所有をその基本理念とし,もっぱら田地(既熟の水田)に重点を置いて組み立てられていた。その中核をなすのは班田制であり,班田収授法によって6歳以上の良民男子は2段,女子にはその3分の2,奴婢にはそれぞれ良民男女の3分の1の口分田が班給された(官戸・官奴婢の口分田は良民に同じ)。班田は6年に1度,同じく6年1造である戸籍に基づいて行われ,死亡者の口分田を収公し,新しく規定の年齢に達したものに班給された。口分田以外の田種としては,畿内4ヵ国に合計100町置かれた天皇供御料田としての官田(屯田(みた)),五位以上の有位者に位階に応じて与えられた位田(親王・内親王にも品位に応じて与えられる),国家に功労あるものに与えられる功田(こうでん),大納言以上に与えられる職分田(職田),大宰府および諸国司の史生以上に与えられる在外諸司職分田(公廨田(くがいでん)),郡司の主帳以上に与えられる郡司職分田(職田),および賜田,神田,寺田などがあった。当時は諸種の田地に対し公田・私田の区別がなされていたが,私田とは私人によって用益される有主田(口分田,位田,功田,各種職分田,賜田など),公田とは公的な機関によって用益される無主田(官田,神田,寺田など)のことで,ほぼ田租の輸不に対応していた。公田のうち最大のものは各種の田地を割き取った残りの乗田で,これは1年を限って農民に賃租(ちんそ)され,その地子(じし)が太政官の雑用に充てられた。また私田とはいっても,その用益は功田を除き一身の間,もしくは特定の官職にある間に限られており,また賃租以外の田地の売買・譲渡は禁ぜられていたから,田主がその土地に対してもつのは単に排他的な占有権に過ぎず,所有権は存在しなかった(功田の場合,下功は1世,中功は2世,上功は3世に伝えられたあと収公されるが,大功田のみは永久に伝世することが認められていた)。
これに対して園地・宅地は永売が認められており,私有権の強い土地として規定されているが,口数に応じて一定額の園宅地が一括して班給されることになっていた唐令の規定に比べ,園地の班給規定ははなはだ漠然としており,宅地に至っては班給規定すらなく,果たして律令制定時に一般農民層の園宅地に対する私有権がどの程度に発達していたかはかなり疑問である。また墾田(こんでん)については,令には国司が任国で空閑地を開墾することを許す規定があるのみで,ほかには何ら積極的な規定がなかったが,その後723年(養老7)には三世一身法,743年(天平15)には墾田永年私財法が施行され,後者によって貴族層から庶人に至るまで,それぞれ一定限度内の墾田に対する永久的な私有権が認められることとなった。これ以後,先の公田・私田概念の枠組みは変化し,永年私財田とされた田が私田,口分田も含むその他の田地が公田と称されるようになった。このほか,令には規定がないが,奈良時代の初期から雑穀栽培地としての陸田(りくでん)の耕作が奨励され,その班給も行われた。
律令租税制の中心となるのは課役である。課役とは調,庸,雑徭の3者を指すが,このうち調は絹,絁,糸,綿,布をはじめとする各地の物産を指定した品目について一定量おさめさせるもの,庸は1年に10日間中央での力役に従う歳役(さいえき)の代納物として布,米などをおさめさせるもの,雑徭は年間60日を限度とする地方的力役である。これらはいずれも人頭税で,成年男子を対象として課せられたが(京畿内は庸免),正丁(21~60歳)1人の負担量を基準として,老丁(61~65歳)および正丁中の残疾(軽度の有疾者)はその2分の1,少丁(17~20歳。中男ともいう)は調,雑徭のみその4分の1を負担した。このほかにも田地1段につき2束2把(不成斤。706年(慶雲3)以後は成斤の1束5把)の稲をおさめさせる田租(租),9等の戸等に応じて各戸から粟を出させる備荒用の義倉(ぎそう),戸内の正丁3人につき1丁の割合で点ぜられる兵士役(実際の点兵率は4分の1か),1里から2人の正丁が点ぜられ,3年間上京して諸官司の雑役に従事する仕丁(しちよう)などが存在したが,中でも特に負担の重いのは雑徭,兵士役(防人,衛士を含む),仕丁役などの力役であった。また本来勧農的な意味をもったと思われる出挙(すいこ)もしだいに租税化し,重い負担となっていった。
以上の諸租税のうち,田租は籾にして国郡の正倉(しようそう)に蓄積され,非常の用途に備えられるとともに,一部は貧窮者や飢饉時の救済用にあてられた。中央に送られたのは調と庸で,大蔵省や民部省の倉庫に収納され,調物は官人の禄や官司の諸費用に,庸物は主として衛士,仕丁,采女(うねめ)などの食料や雇役民の雇直,食料に充てられた。また出挙の利稲は国衙の諸費用をまかなうとともに,中央に進上する諸種の物品の交易調達費や中央諸官司の常食をまかなう年料舂米(しようまい)などに充てられた。律令国家財政は,天平期以降,その急速な肥大化にともない,地方諸国に蓄えられた正税(しようぜい)(出挙稲と田租)への依存度をしだいに強め,調庸制を基礎とする本来のあり方から大きな変質を遂げていくこととなった。
執筆者:鎌田 元一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国を中心とする東アジア世界で行われた政治制度。律は刑法、令はそれ以外の行政上必要な諸法規の集成で、この法体系を機軸に国家の諸制度が整えられ、政治支配の体制が形成されたので、その体制を律令制とよぶ。中国では南北朝以後清(しん)朝に至るまで歴代王朝が律令をもったが、日本では古代において、中国から継承したこの法体系が政治支配の基本として独自の役割を担ったので、7世紀後半から10世紀ごろまでを、とくに律令制の時代、もしくは律令時代とよんでいる。
[笹山晴生]
中国の律令は、晋(しん)代から南北朝にかけて法典として整備され、隋(ずい)・唐代に集大成された。唐の律令は以後の中国歴代王朝の律令の規範となり、日本、朝鮮、ベトナムなどのアジア諸国にも影響を与え、律令法はヨーロッパにおけるローマ法に匹敵する地位を東アジア世界においてもつことになった。唐は、豪族を官僚化し、尚書(しょうしょ)、中書(ちゅうしょ)、門下(もんか)の三省を中心とする整然たる官制をもち、祖調庸(そちょうよう)の税制、均田(きんでん)制、府兵(ふへい)制などの諸制度によって人民を把握する強力な中央集権の体制をつくりあげた。
日本の律令制は、隋・唐の律令の法体系を移入し、それをもとに形成されたもので、7世紀後半に成立した。当時日本の支配層を構成していた皇室・中央豪族は、隋・唐帝国の形式に伴う東アジア情勢の変化に対応して国内における早急な権力集中の必要に迫られており、旧来の族制的な政治体制、各豪族による私有地・私有民支配を克服し、強力な権力機構のもとでの人民支配を実現するために、中国での既成の支配体制を移入したのである。権力集中化への動きは645年(大化1)の大化改新からみられるが、隋・唐の律令制を基軸とした中央集権国家の構想が明確となるのは、663年(天智天皇2)の白村江(はくすきのえ)の敗戦後の天智(てんじ)朝以後といってよく、ことに672年(弘文天皇1)の壬申(じんしん)の乱後の天武(てんむ)・持統(じとう)朝においてその体制の基礎は固められた。6年に一度の造籍・班田収授、50戸1里の里制、国・評(のちに郡)の地方行政組織、軍団・兵士制などがこの間に整備され、701年(大宝1)に大宝(たいほう)律令が制定施行されると、八省を中心とする中央官制も整い、日本の律令制はほぼその完成をみた。
[笹山晴生]
日本は中国の律令法を継受したが、日本社会は親族制度など異質な点が多く、律令にもそれに応じた改変が加えられている。
日本の律令制国家は、天皇を中心に、中央豪族が支配層を構成する国家である。天皇の意志は詔勅によって伝えられるが、国政の重要事項は、有力豪族の代表者によって構成される左右大臣、大納言(だいなごん)などの大政官(だいじょうかん)によって議せられ、天皇の裁可を得て実施された。日本の天皇は、中国の皇帝ほどには専制的な権力を握っていないが、上級官吏の任免権、軍隊の発動権、刑罰権などは最終的には天皇に帰属している。日本の律令制国家は、大化改新以前からの中央豪族が、自己の支配をより確実なものとするために、天皇のもとに団結し、その支配層を構成したもので、天皇の伝統的権威が彼らの存立のよりどころであった。彼らは私地・私民を失ったかわりに、官僚として国家機構を通じ、一元的により強力に人民を支配し、人民からの徴発物を給与として取得することによって、その社会的・経済的基盤を発展させることができた。
律令制国家の支配身分を標示するものが官位である。有位者は官位相当制によって位階に相応する官職に任ぜられ、一定年数ごとに功労に応じて官位を進められ、上級の官職に遷任した。官人はその位階・官職に応じて食封(じきふ)、禄(ろく)、田、資人(しじん)などを支給され、また課役を免除された。しかし一位~五位の上級官人と六位~初位(そい)の下級官人との間には待遇に著しい差があり、五位以上の者は子孫が官途につく場合にも蔭位(おんい)制という優遇措置があったから、上級官人は貴族として身分を固めていくことになった。
被支配者である人民は、良・賤(せん)に二大別される。賤民には公有の官戸(かんこ)・陵戸(りょうこ)・官奴婢(かんぬひ)、民間所有の家人(けにん)、私奴婢(しぬひ)があった。このほか、大化前代の品部(しなべ)の一部が品部・雑戸(ざっこ)という特殊な身分とされ、技能をもって宮廷に奉仕した。しかし賤民の全人口に対する比率は10%以下と思われ、寺院や中央・地方の豪族、有力農民に集中的に所有されていた。したがって当時の農業生産の主たる担い手は良民である一般農民であった。農民は、口分田(くぶんでん)を与えられ、それを耕作する自由民のようにみえるが、耕地の自由な拡大を認められず、再生産に必要な種籾(たねもみ)や用水施設の管理権などを国家に掌握され、そのうえ過酷な労役を国家に対して負っていた。このため、マルクスのいうアジア的共同体を基礎として成立した総体的奴隷制の社会として律令制下の社会をとらえる見解が有力である。
[笹山晴生]
律令の官制は、中央に祭祀(さいし)をつかさどる神祇(じんぎ)、国政を行う太政(だいじょう)の二官、太政官のもとに中務(なかつかさ)・式部(しきぶ)・治部(じぶ)・民部(みんぶ)・兵部(ひょうぶ)・刑部(ぎょうぶ)・大蔵(おおくら)・宮内(くない)の八省があり、各省にはさらに多数の下級官司(被官(ひかん))が従属し、それぞれ政務を分担した。これとは別に、官吏の綱紀を監督する弾正台(だんじょうだい)、親衛軍である五衛府(ごえふ)があった。これらの各官司には、それぞれ長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)のいわゆる四等官(しとうかん)が置かれ、ほかに舎人(とねり)、史生(ししょう)、伴部(ともべ)、使部(つかいべ)などの多くの役職者が所属した。大化改新前の、伴造(とものみやつこ)が品部を率いて朝廷の職務を世襲する体制は、このような官僚機構に改編、吸収されたが、一部の伴造はなお伴部として、特定の氏族(負名(なおい)の氏)がその職務を世襲し、品部のうちの一部の技術者も、品部・雑戸として依然として朝廷に隷属するものとされた。地方は一般に国・郡・里(郷)に編成され、国司・郡司・里長がおかれた。国司は中央の官人が交替で赴任するのに対し、郡司には伝統的な在地支配者である国造(くにのみやつこ)などの地方豪族が任命された。主要交通路には駅馬・伝馬が置かれ、地方の政務は四度使(よどのつかい)などがもたらす多くの文書によって絶えず中央に報告された。このほか特定の地域には、都の京職(きょうしき)、難波(なにわ)の津を管理する摂津職(せっつしき)、九州地方の行政と辺防、外交事務にあたる大宰府(だざいふ)などが置かれた。また常備軍として全国に軍団が置かれ、成年男子を1戸につき3人に1人の割で徴兵した。
刑罰には笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の五刑があり、さらに20等に細分される。日本律は、量刑が一般に軽減されているほかは、ほぼ唐律の規定を踏襲しており、国家および宗族(そうぞく)の秩序を乱す罪は八虐(はちぎゃく)として重いものとされた。また杖罪以下の断決権は各官司が握り、地方では郡司が笞罪の断決権を握っていた。
[笹山晴生]
律令の土地制度の基幹は、唐の均田制に倣った班田収受制である。全国の田を国家の一元的支配のもとに置き、6歳以上の男女に一定基準で班給して耕作させ、6年に一度、戸籍に基づいて死亡者の分を収公し、新しく規定の年齢に達した者に班給する。これ以外の公田(乗田)は、農民に貸与し耕作させて地子(じし)をとった(賃租)。このほかに職田(しきでん)、位田、功田、神田、寺田などがあった。山林原野については、公私の利用のためその占有が禁じられたが、農民の園地、宅地については私用が認められ、園地には桑、漆が栽培された。
全国の人民は戸に編成され、5戸は保(ほ)を結んで治安、納税上の連帯責任を負った。8世紀の戸籍によれば、1戸の平均は25人前後で、まれに100人を超える戸も存在する。戸籍は6年に一度つくられ、人民の身分の証明となり、また班田の台帳ともなる。さらに毎年計帳がつくられ、これに基づいて徴税が行われた。農民からの徴発物のうち、田地に課せられる祖は、稲をもって納められ、地方国衙(こくが)にとどめられてその財源となった。調と庸は男子に課せられ、主として繊維製品をもって納められ、農民の運脚(うんきゃく)を使って中央に運ばれ、中央政府の財源となった。官稲を農民に貸与し、秋に利息をつけて返却させる出挙(すいこ)の制度も租税の一種であり、のちには地方国衙の重要な財源となった。労働力の徴発としては、年間60日を限って諸国内の道路・堤防工事などに農民を使役する雑徭(ぞうよう)、調庸の運脚、有償の労役としての雇役(こえき)、仕丁(しちょう)、兵役などがあり、兵役には軍団への勤務のほか、中央の宮城の警備にあたる衛士(えじ)、九州地方の辺防にあたる防人(さきもり)があった。これら班田、造籍、徴税、徴兵にあたっては、実際には郡司などの地方豪族の農民に体する共同体的支配に依拠する面が強かったものと考えられる。
[笹山晴生]
8世紀(奈良時代)の前半には、律令制による中央集権が強力に推進され、貴族層の社会的・経済的発展を反映して、華やかな貴族文化が栄えた。しかし、早急な権力集中化を目ざして導入された律令制と、現実の土地や人民の存在形態との矛盾も、浮浪人の増加、役民の逃亡などの形で、早くも政治の表面に現れた。743年(天平15)には、政府は墾田永年私財法を発し、農民の墾田について、その所有を公認した。8世紀末になると、農村における階層分化が振興し、疲弊した弱小農民による調庸の滞納が中央財政を圧迫したので、桓武(かんむ)朝を中心に、徴兵制の廃止など農民の労役負担の軽減、官制の縮小再編、国司に対する監督の強化などの一連の政策がとられた。9世紀に入ると、有力な皇族・貴族(院宮王臣家)は、在地の有力農民層と結んで私的な土地・人民支配を拡大するようになり、律令制的な支配の枠組みはしだいに形骸(けいがい)化して、班田の励行は困難となり、戸籍にも虚偽の記載が著しくなった。中央政府の官司・官人も、それぞれ独自の経済的基盤を京庫のほかに求めるようになった。10世紀以降には、このような社会の変化に応じて律令制の人身賦課にかわる所当官物などの土地賦課の賦役が行われ、全国の土地は、皇族・貴族・寺社の領有する荘園(しょうえん)と公領(国衙領)とに二分されるようになり、中央の皇族・貴族による全国支配は新しい体制に移行した。政治の面では、10世紀から11世紀にかけて藤原氏が他氏排斥を果たし、一氏専制の摂関政治を実現させたが、その支配機構や社会的基盤はすでに律令制からは大きく隔たっていた。また地方では9世紀以降、郡司などの伝統的な豪族層が衰退し、国衙が中央勢力による支配の拠点となり、11世紀以降には、新たに成長してきた在地領主=武士がその実権を掌握した。律令の法体系や、背景にある儒教的な政治・道徳思想は、以後の公家(くげ)法・武家法や日本人の思想に大きな影響を及ぼしている。
[笹山晴生]
『石母田正著『日本の古代国家』(1971・岩波書店)』▽『青木和夫編『シンポジウム日本歴史4 律令国家論』(1972・学生社)』▽『吉田孝著『律令国家と古代の社会』(1983・岩波書店)』▽『早川庄八著『日本古代官僚制の研究』(1986・岩波書店)』
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古代国家の基本法典である律と令およびその国制。広義には律令国家と同義であるが,むしろ国制の理念,本質的性格をさす。律令は唐のそれを手本としたので継受法ともいえるが,唐では律令格式(きゃくしき)と礼とで全体の国制を規定していたのに対し,日本では8世紀には集成法としての格式はなく,律令のみで全体を規定した点に特色があり,選択的に継受している。律令は外見上唐制に類似する部分が多いが,唐制を模倣し理想を掲げただけで現実には機能しなかった部分がある一方で,7世紀の国制を継承し,在地首長制など日本独自の構造に依拠している部分もあり,律令制と氏族制との二元的構造を考える説もある。9世紀には律令から格式の時代へ移行し,やがて律令制は崩壊するとされるが,律令制を広義に唐制を継受した国制ととらえれば,律令の規定は青写真的であり,礼の継受を含めて,律令制は9世紀以降に展開すると考えることもできる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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