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律令制 りつりょうせい

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

律令制
りつりょうせい

主として奈良~平安時代に施行された律令法に基づき公地公民制を基礎とする中央集権的官僚体制。律令法は刑法の律,刑法以外の諸規定を網羅した令,補足法としての格 (きゃく) ,施行細則であるから成っており,唐制にならったものであった。

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デジタル大辞泉の解説

りつりょう‐せい〔リツリヤウ‐〕【律令制】

律令を基本法とする古代日本の中央集権政治制度およびそれに基づく政治体制。中国のの法体系を取り入れて成立。二官八省を中心とする中央官制国郡里制による地方行政組織が整い、公地公民を原則として官僚による土地・人民支配が確立した。人民を良民賤民(せんみん)に二大別し、班田収授の法により耕地を与える代わりに租庸調(そようちょう)雑徭(ぞうよう)などを課して中央および地方の財源とした。荘園制が発達する9世紀末から10世紀ごろには実質が失われた。令制。

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百科事典マイペディアの解説

律令制【りつりょうせい】

律令制度

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世界大百科事典 第2版の解説

りつりょうせい【律令制】

日本の古代において,律令法の体系を基軸として形成された国家統治の体制をいい,良・賤の身分制度,中央集権的な官僚制国家機構,国家的土地所有を基礎とする公民支配などをその基本的な特徴とする。7世紀の後半,近江令(存在を否定する説もある),飛鳥浄御原令の編纂を通じて基礎が固められ,701年(大宝1)の大宝律令の制定・施行によってほぼその完成をみた。以後この体制が大きく変質する10世紀ごろまでの間を特に律令制の時代または律令時代と称し,この時期の国家を律令国家と呼んで前後の時代とは区別している。

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大辞林 第三版の解説

りつりょうせい【律令制】

大宝律令・養老律令に規定された諸制度。また、律令格式によって運営され、規定された政治体制。令制。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

律令制
りつりょうせい

中国を中心とする東アジア世界で行われた政治制度。律は刑法、令はそれ以外の行政上必要な諸法規の集成で、この法体系を機軸に国家の諸制度が整えられ、政治支配の体制が形成されたので、その体制を律令制とよぶ。中国では南北朝以後清(しん)朝に至るまで歴代王朝が律令をもったが、日本では古代において、中国から継承したこの法体系が政治支配の基本として独自の役割を担ったので、7世紀後半から10世紀ごろまでを、とくに律令制の時代、もしくは律令時代とよんでいる。[笹山晴生]

成立

中国の律令は、晋(しん)代から南北朝にかけて法典として整備され、隋(ずい)・唐代に集大成された。唐の律令は以後の中国歴代王朝の律令の規範となり、日本、朝鮮、ベトナムなどのアジア諸国にも影響を与え、律令法はヨーロッパにおけるローマ法に匹敵する地位を東アジア世界においてもつことになった。唐は、豪族を官僚化し、尚書(しょうしょ)、中書(ちゅうしょ)、門下(もんか)の三省を中心とする整然たる官制をもち、祖調庸(そちょうよう)の税制、均田(きんでん)制、府兵(ふへい)制などの諸制度によって人民を把握する強力な中央集権の体制をつくりあげた。
 日本の律令制は、隋・唐の律令の法体系を移入し、それをもとに形成されたもので、7世紀後半に成立した。当時日本の支配層を構成していた皇室・中央豪族は、隋・唐帝国の形式に伴う東アジア情勢の変化に対応して国内における早急な権力集中の必要に迫られており、旧来の族制的な政治体制、各豪族による私有地・私有民支配を克服し、強力な権力機構のもとでの人民支配を実現するために、中国での既成の支配体制を移入したのである。権力集中化への動きは645年(大化1)の大化改新からみられるが、隋・唐の律令制を基軸とした中央集権国家の構想が明確となるのは、663年(天智天皇2)の白村江(はくすきのえ)の敗戦後の天智(てんじ)朝以後といってよく、ことに672年(弘文天皇1)の壬申(じんしん)の乱後の天武(てんむ)・持統(じとう)朝においてその体制の基礎は固められた。6年に一度の造籍・班田収授、50戸1里の里制、国・評(のちに郡)の地方行政組織、軍団・兵士制などがこの間に整備され、701年(大宝1)に大宝(たいほう)律令が制定施行されると、八省を中心とする中央官制も整い、日本の律令制はほぼその完成をみた。[笹山晴生]

身分と階級

日本は中国の律令法を継受したが、日本社会は親族制度など異質な点が多く、律令にもそれに応じた改変が加えられている。
 日本の律令制国家は、天皇を中心に、中央豪族が支配層を構成する国家である。天皇の意志は詔勅によって伝えられるが、国政の重要事項は、有力豪族の代表者によって構成される左右大臣、大納言(だいなごん)などの大政官(だいじょうかん)によって議せられ、天皇の裁可を得て実施された。日本の天皇は、中国の皇帝ほどには専制的な権力を握っていないが、上級官吏の任免権、軍隊の発動権、刑罰権などは最終的には天皇に帰属している。日本の律令制国家は、大化改新以前からの中央豪族が、自己の支配をより確実なものとするために、天皇のもとに団結し、その支配層を構成したもので、天皇の伝統的権威が彼らの存立のよりどころであった。彼らは私地・私民を失ったかわりに、官僚として国家機構を通じ、一元的により強力に人民を支配し、人民からの徴発物を給与として取得することによって、その社会的・経済的基盤を発展させることができた。
 律令制国家の支配身分を標示するものが官位である。有位者は官位相当制によって位階に相応する官職に任ぜられ、一定年数ごとに功労に応じて官位を進められ、上級の官職に遷任した。官人はその位階・官職に応じて食封(じきふ)、禄(ろく)、田、資人(しじん)などを支給され、また課役を免除された。しかし一位~五位の上級官人と六位~初位(そい)の下級官人との間には待遇に著しい差があり、五位以上の者は子孫が官途につく場合にも蔭位(おんい)制という優遇措置があったから、上級官人は貴族として身分を固めていくことになった。
 被支配者である人民は、良・賤(せん)に二大別される。賤民には公有の官戸(かんこ)・陵戸(りょうこ)・官奴婢(かんぬひ)、民間所有の家人(けにん)、私奴婢(しぬひ)があった。このほか、大化前代の品部(しなべ)の一部が品部・雑戸(ざっこ)という特殊な身分とされ、技能をもって宮廷に奉仕した。しかし賤民の全人口に対する比率は10%以下と思われ、寺院や中央・地方の豪族、有力農民に集中的に所有されていた。したがって当時の農業生産の主たる担い手は良民である一般農民であった。農民は、口分田(くぶんでん)を与えられ、それを耕作する自由民のようにみえるが、耕地の自由な拡大を認められず、再生産に必要な種籾(たねもみ)や用水施設の管理権などを国家に掌握され、そのうえ過酷な労役を国家に対して負っていた。このため、マルクスのいうアジア的共同体を基礎として成立した総体的奴隷制の社会として律令制下の社会をとらえる見解が有力である。[笹山晴生]

行政機構

律令の官制は、中央に祭祀(さいし)をつかさどる神祇(じんぎ)、国政を行う太政(だいじょう)の二官、太政官のもとに中務(なかつかさ)・式部(しきぶ)・治部(じぶ)・民部(みんぶ)・兵部(ひょうぶ)・刑部(ぎょうぶ)・大蔵(おおくら)・宮内(くない)の八省があり、各省にはさらに多数の下級官司(被官(ひかん))が従属し、それぞれ政務を分担した。これとは別に、官吏の綱紀を監督する弾正台(だんじょうだい)、親衛軍である五衛府(ごえふ)があった。これらの各官司には、それぞれ長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)のいわゆる四等官(しとうかん)が置かれ、ほかに舎人(とねり)、史生(ししょう)、伴部(ともべ)、使部(つかいべ)などの多くの役職者が所属した。大化改新前の、伴造(とものみやつこ)が品部を率いて朝廷の職務を世襲する体制は、このような官僚機構に改編、吸収されたが、一部の伴造はなお伴部として、特定の氏族(負名(なおい)の氏)がその職務を世襲し、品部のうちの一部の技術者も、品部・雑戸として依然として朝廷に隷属するものとされた。地方は一般に国・郡・里(郷)に編成され、国司・郡司・里長がおかれた。国司は中央の官人が交替で赴任するのに対し、郡司には伝統的な在地支配者である国造(くにのみやつこ)などの地方豪族が任命された。主要交通路には駅馬・伝馬が置かれ、地方の政務は四度使(よどのつかい)などがもたらす多くの文書によって絶えず中央に報告された。このほか特定の地域には、都の京職(きょうしき)、難波(なにわ)の津を管理する摂津職(せっつしき)、九州地方の行政と辺防、外交事務にあたる大宰府(だざいふ)などが置かれた。また常備軍として全国に軍団が置かれ、成年男子を1戸につき3人に1人の割で徴兵した。
 刑罰には笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の五刑があり、さらに20等に細分される。日本律は、量刑が一般に軽減されているほかは、ほぼ唐律の規定を踏襲しており、国家および宗族(そうぞく)の秩序を乱す罪は八虐(はちぎゃく)として重いものとされた。また杖罪以下の断決権は各官司が握り、地方では郡司が笞罪の断決権を握っていた。[笹山晴生]

土地と農民の支配

律令の土地制度の基幹は、唐の均田制に倣った班田収受制である。全国の田を国家の一元的支配のもとに置き、6歳以上の男女に一定基準で班給して耕作させ、6年に一度、戸籍に基づいて死亡者の分を収公し、新しく規定の年齢に達した者に班給する。これ以外の公田(乗田)は、農民に貸与し耕作させて地子(じし)をとった(賃租)。このほかに職田(しきでん)、位田、功田、神田、寺田などがあった。山林原野については、公私の利用のためその占有が禁じられたが、農民の園地、宅地については私用が認められ、園地には桑、漆が栽培された。
 全国の人民は戸に編成され、5戸は保(ほ)を結んで治安、納税上の連帯責任を負った。8世紀の戸籍によれば、1戸の平均は25人前後で、まれに100人を超える戸も存在する。戸籍は6年に一度つくられ、人民の身分の証明となり、また班田の台帳ともなる。さらに毎年計帳がつくられ、これに基づいて徴税が行われた。農民からの徴発物のうち、田地に課せられる祖は、稲をもって納められ、地方国衙(こくが)にとどめられてその財源となった。調と庸は男子に課せられ、主として繊維製品をもって納められ、農民の運脚(うんきゃく)を使って中央に運ばれ、中央政府の財源となった。官稲を農民に貸与し、秋に利息をつけて返却させる出挙(すいこ)の制度も租税の一種であり、のちには地方国衙の重要な財源となった。労働力の徴発としては、年間60日を限って諸国内の道路・堤防工事などに農民を使役する雑徭(ぞうよう)、調庸の運脚、有償の労役としての雇役(こえき)、仕丁(しちょう)、兵役などがあり、兵役には軍団への勤務のほか、中央の宮城の警備にあたる衛士(えじ)、九州地方の辺防にあたる防人(さきもり)があった。これら班田、造籍、徴税、徴兵にあたっては、実際には郡司などの地方豪族の農民に体する共同体的支配に依拠する面が強かったものと考えられる。[笹山晴生]

衰退

8世紀(奈良時代)の前半には、律令制による中央集権が強力に推進され、貴族層の社会的・経済的発展を反映して、華やかな貴族文化が栄えた。しかし、早急な権力集中化を目ざして導入された律令制と、現実の土地や人民の存在形態との矛盾も、浮浪人の増加、役民の逃亡などの形で、早くも政治の表面に現れた。743年(天平15)には、政府は墾田永年私財法を発し、農民の墾田について、その所有を公認した。8世紀末になると、農村における階層分化が振興し、疲弊した弱小農民による調庸の滞納が中央財政を圧迫したので、桓武(かんむ)朝を中心に、徴兵制の廃止など農民の労役負担の軽減、官制の縮小再編、国司に対する監督の強化などの一連の政策がとられた。9世紀に入ると、有力な皇族・貴族(院宮王臣家)は、在地の有力農民層と結んで私的な土地・人民支配を拡大するようになり、律令制的な支配の枠組みはしだいに形骸(けいがい)化して、班田の励行は困難となり、戸籍にも虚偽の記載が著しくなった。中央政府の官司・官人も、それぞれ独自の経済的基盤を京庫のほかに求めるようになった。10世紀以降には、このような社会の変化に応じて律令制の人身賦課にかわる所当官物などの土地賦課の賦役が行われ、全国の土地は、皇族・貴族・寺社の領有する荘園(しょうえん)と公領(国衙領)とに二分されるようになり、中央の皇族・貴族による全国支配は新しい体制に移行した。政治の面では、10世紀から11世紀にかけて藤原氏が他氏排斥を果たし、一氏専制の摂関政治を実現させたが、その支配機構や社会的基盤はすでに律令制からは大きく隔たっていた。また地方では9世紀以降、郡司などの伝統的な豪族層が衰退し、国衙が中央勢力による支配の拠点となり、11世紀以降には、新たに成長してきた在地領主=武士がその実権を掌握した。律令の法体系や、背景にある儒教的な政治・道徳思想は、以後の公家(くげ)法・武家法や日本人の思想に大きな影響を及ぼしている。[笹山晴生]
『石母田正著『日本の古代国家』(1971・岩波書店) ▽青木和夫編『シンポジウム日本歴史4 律令国家論』(1972・学生社) ▽吉田孝著『律令国家と古代の社会』(1983・岩波書店) ▽早川庄八著『日本古代官僚制の研究』(1986・岩波書店)』

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