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坂上田村麻呂 さかのうえのたむらまろ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ

[生]天平宝字2(758)
[没]弘仁2(811).5.23.
平安時代初期の武将。父は苅田麻呂。宝亀 11 (780) 年近衛将監,延暦6 (787) 年近衛少将,同 10年征東副使に任命され,同 13年征夷大将軍大伴弟麻呂に従って蝦夷を討った。同 15年陸奥出羽按察使兼陸奥守,さらに鎮守府将軍,同 16年征夷大将軍に任命された。

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デジタル大辞泉の解説

さかのうえ‐の‐たむらまろ〔さかのうへ‐〕【坂上田村麻呂】

[758~811]平安初期の武将。延暦13年(794)蝦夷(えぞ)を征討し、同16年征夷大将軍となった。その後、胆沢城(いさわじょう)を造営し、蝦夷地平定に功を残した。京都の清水寺の創建者と伝えられる。

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百科事典マイペディアの解説

坂上田村麻呂【さかのうえのたむらまろ】

平安初期の武将。父の苅田麻呂(かりたまろ)は藤原仲麻呂の乱等に武功をたてた。791年征夷(せいい)大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)の下で征東副使(せいとうふくし)として蝦夷(えみし)を討ち,次いで征夷大将軍となった。
→関連項目岩手[県]蝦夷地桓武天皇黒石寺篦峯寺志波城多賀城ねぶた平泉文室綿麻呂明通寺陸奥国東漢氏

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

坂上田村麻呂 さかのうえの-たむらまろ

758-811 奈良-平安時代前期の武人。
天平宝字(てんぴょうほうじ)2年生まれ。坂上苅田麻呂の子。延暦(えんりゃく)10年征夷(せいい)副使となり13年蝦夷(えみし)を討つ。15年陸奥(むつ)出羽(でわ)按察使(あぜち),陸奥守,鎮守将軍を兼任し,16年征夷大将軍。21年陸奥胆沢(いさわ)城,22年志波(しわ)城をきずく。24年参議,大同(だいどう)2年右近衛(うこんえの)大将。5年大納言となり,薬子(くすこ)の変を鎮圧した。京都の清水寺を創建したという。弘仁(こうにん)2年5月23日死去。54歳。贈従二位。

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朝日日本歴史人物事典の解説

坂上田村麻呂

没年:弘仁2.5.23(811.6.17)
生年:天平宝字2(758)
平安初期,蝦夷征討にもっとも深くかかわった武将。苅田麻呂の子。母は畝火浄永の娘とも。宝亀11(780)年,23歳で近衛将監に任じられて以来,武官を歴任。延暦13(794)年,征東副使として下向,これが東北経営にかかわった最初である。16年征夷大将軍,詳しくいえば「征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使兼陸奥守鎮守将軍」に任じられ,東北経営にかかわる全指揮権を与えられている。21年,造胆沢城使として現地に下っていたとき,蝦夷の族長阿弖流為,盤具母礼らが五百余人を率いて投降,田村麻呂はふたりを連れて上京し,命を助け彼らによる現地民政の安定化を進言するが,公卿たちの認めるところとならず,ふたりは殺されてしまう。これを,彼らを欺く行為とみる理解もあるが,田村麻呂の性格から考えても善意を疑うことはないであろう。翌年,造志波(斯波)城使に任命,さらに23年,再び征夷大将軍に任じられたが,いわゆる「徳政相論」によって事業は中止された。のち薬子の変(810)では平城上皇の東国行きを阻止している。 身長5尺8寸(約175cm),胸の厚さ1尺3寸(約40cm),赤ら顔で目は鷹のように鋭く,黄金色のあごひげがふさふさしていたといい,東北での活躍ぶりから「稀代の名将」「毘沙門の化身」と称された。性格は柔和で,怒れば鬼神猛獣でもひれ伏したが,笑えば赤ん坊もなつくようなやさしい顔になったという。弘仁1(810)年大納言となり,翌年東山粟田の別荘で没した。武人にふさわしく王城に向かい,武具姿で立ったまま棺に納められたといい,栗栖野(京都市山科区)にある円墳がそれと伝え,嵯峨天皇は詩や「田村麻呂伝記」を作ってその死を悼んでいる。11男1女の子供のうち大野,広野らは武官となり継承,娘春子は桓武に入内。大同2(807)年,清水寺を建立(開基は延鎮)したと伝えるが,東北地方にも田村麻呂建立と伝える寺社が少なくない。<参考文献>高橋崇『坂上田村麻呂』,亀田隆之『坂上田村麻呂』,瀧浪貞子『平安建都』

(瀧浪貞子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

さかのうえのたむらまろ【坂上田村麻呂】

758‐811(天平宝字2‐弘仁2)
平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞(ばんきよ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で,武術に秀でていた。田村麻呂も〈赤面黄鬚,勇力人に過ぐ,将帥の量あり〉といわれた。785年(延暦4)従五位下,787年近衛少将となり,以後越後守などを兼任していたが,791年に征東副使の一人として蝦夷との戦いに加わった。数年にわたる戦闘で功をあげ,795年従四位下,翌年陸奥出羽按察使(あぜち)兼陸奥守,さらに鎮守府将軍を経て,797年征夷大将軍に任じられた。

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大辞林 第三版の解説

さかのうえのたむらまろ【坂上田村麻呂】

758~811) 平安初期の武将。桓武・平城・嵯峨の三天皇に仕え、征夷大将軍として蝦夷えぞ地を平定、薬子くすこの乱鎮定にも功を立て、正三位大納言にのぼる。また、京都清水寺を草創。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ
(758―811)

平安初期に活躍した武将。苅田麻呂(かりたまろ)の子。桓武(かんむ)天皇の二大事業の一つとして活発に行われた蝦夷(えぞ)征討において、武将としての器量を大いに発揮して活躍したことで有名。近衛府(このえふ)の少将であった791年(延暦10)征東副使となったのを契機に大使大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)のもとで蝦夷討伐に功をたて、796年には陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)、陸奥守(むつのかみ)を兼任し、ついで鎮守府(ちんじゅふ)将軍をも兼ね、翌年には征夷(せいい)大将軍に任ぜられた。801年(延暦20)の第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて赴き、4万の軍を率いて攻め、まず胆沢(いさわ)の地を攻略し、翌年胆沢城を築いて鎮守府を多賀(たが)城から移した。ついで803年にはさらに北進して志波(しわ)城をつくり、蝦夷地経略に多大の功績を残した。これらの功によって805年に参議となって公卿(くぎょう)の仲間入りをし、その後、中納言(ちゅうなごん)を経て正三位大納言(右近衛大将)にまで至った。この間、810年(弘仁1)に起こった薬子(くすこ)の変では嵯峨(さが)天皇の命で、東国への脱出を企てた平城(へいぜい)上皇らを大和(やまと)国(奈良県)添上(そうのかみ)郡で食い止め、武功をあげた。翌弘仁(こうにん)2年5月23日に薨去(こうきょ)。姉妹又子、娘の春子が桓武天皇の後宮に入って、それぞれ高津(たかつ)内親王および葛井(ふじい)親王を生んでいる。京都東山の清水寺(きよみずでら)は田村麻呂の創建と伝える。[朧谷 寿]
『高橋崇著『坂上田村麻呂』(1959・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の坂上田村麻呂の言及

【胆沢城】より

…8世紀後半の宝亀・延暦年間にかけて,岩手県南半部の北上川流域すなわち〈胆沢の地〉を対象としたいわゆる蝦夷征討がくりかえされた。ようやく801年(延暦20)にいたって,初の征夷大将軍坂上田村麻呂が長年にわたる蝦夷の反乱を制圧したとされている。そして一応の安定をみた地に築造されたのが胆沢城であり志波城である。…

【坂上氏】より

…日本古代の氏族。渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)(倭漢氏とも書く)から分かれた多数の枝氏族の一つ。東漢氏は,応神天皇の時代に阿知使主(あちのおみ)に率いられて日本に渡来してきたという伝承をもち,5世紀ころよりヤマト朝廷の文筆,財務,外交にたずさわるとともに,あとから渡来してきた手工業技術者などを支配下におさめて急速に成長した氏族であるが,その後分裂をくりかえし,60以上の枝氏族に分かれたという。…

【志波城】より

…9世紀初頭に,いわゆる蝦夷経営を経て,岩手県南部の北上川流域〈胆沢(いさわ)の地〉がようやく治まると,その安定を得た地に築造されたのが水沢市にある胆沢城とこの志波城である。志波城は,胆沢城と同じく蝦夷経営の功のあった坂上田村麻呂が造志波城使となり803年(延暦22)に造られた。現在その遺跡は,旧岩手郡内の盛岡市の太田方八丁遺跡とすることに大きな異説はない。…

【征夷大将軍】より

…8世紀末には791年(延暦10)大伴弟麻呂が征東大使に任じられたが,793年征東使が征夷使と改称され,翌794年には征夷大将軍となっている。797年には坂上田村麻呂が征夷大将軍に,811年(弘仁2)には文室綿麻呂が征夷将軍に任命されたが,とくに田村麻呂は鎮守府を多賀城から胆沢城に移すなど,経略を進めて武名をあげ,そのため征夷大将軍の栄称としての性格も強まった。このように征夷大将軍の称はとくに平安初期の桓武・嵯峨朝に行われたが,この時期の重要な政治的課題であった蝦夷経略が一段落すると,その称も廃されるに至った。…

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