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佐竹秀義 さたけ ひでよし

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

佐竹秀義 さたけ-ひでよし

1151-1226* 平安後期-鎌倉時代の武将。
仁平(にんびょう)元年生まれ。佐竹隆義(たかよし)の子。治承(じしょう)4年源頼朝の挙兵の際,平氏方についたため追討をうける。常陸(ひたち)(茨城県)金砂山(かなさざん)城にたてこもったが,叔父佐竹昌成(まさなり)の内通により落城,領地を没収された。文治(ぶんじ)5年頼朝軍の奥州攻めに参加してゆるされ,御家人にくわえられた。嘉禄(かろく)元年12月18日死去。75歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

佐竹秀義

没年:嘉禄1.12.18(1226.1.17)
生年:仁平1(1151)
鎌倉前期の常陸国(茨城県)の武将。佐竹隆義と戸村小三郎(藤原能通)の娘の子。佐竹別当とも。常陸介。法名蓮実。治承4(1180)年,平家方として在京中の父隆義の下,金砂城(茨城県)に拠り,源頼朝に対抗。しかし,上総介平(上総)広常の策略により,兄義政は大矢橋で誘殺され,叔父義季の誘導で城は陥落。花園山(北茨城市)に逃れ,常陸国奥七郡並びに太田,糟田,酒出などの所領を失う。この秀義討伐で戦功をあげた熊谷直実は武蔵の本領を安堵されている。父の死後,一転して頼朝の奥州攻めに参加。宇都宮で帰順を許され,月印五本骨軍扇を与えられ家紋とした。承久の乱では,美濃国山口郷(美濃市ほか)地頭職などを得ている。<参考文献>『茨城県史』

(松井茂)

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世界大百科事典 第2版の解説

さたけひでよし【佐竹秀義】

1151‐1225(仁平1‐嘉禄1)
平安末期~鎌倉初期の武士。清和源氏。常陸国佐竹郷を本拠として常陸国奥七郡(多珂,久慈東,同西,佐都東,同西,那珂東,同西の各郡)に勢力を張った国司級の武士団の惣領であった。父隆義が京都で平氏にくみしたため,1180年(治承4)10月源頼朝に攻められた。82年(寿永1)秀義が隆義の死の跡を継ぐと,反鎌倉の姿勢を改め,とくに89年(文治5)の奥州征伐に際しては進んで幕下にはせ参じた。【小田 雄三】

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世界大百科事典内の佐竹秀義の言及

【佐竹氏】より

…常陸出身の中・近世の武家。清和源氏(図)。新羅三郎義光が兄義家に協力するため常陸介として下向し,子義業が久慈郡佐竹郷を領有,孫昌義が母方について土着し,奥七郡を支配して佐竹冠者とよばれるようになった。昌義の子と思われる義宗は下総国相馬御厨の預職に任命されている。源頼朝挙兵に当たっては,秀義が平氏に荷担して頼朝包囲に加わったが,1180年(治承4)逆に頼朝によって金砂山に攻められ,奥州に敗走,父祖の地を失った。…

※「佐竹秀義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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