佐竹秀義(読み)さたけひでよし

改訂新版 世界大百科事典 「佐竹秀義」の意味・わかりやすい解説

佐竹秀義 (さたけひでよし)
生没年:1151-1225(仁平1-嘉禄1)

平安末期~鎌倉初期の武士清和源氏常陸国佐竹郷を本拠として常陸国奥七郡(多珂,久慈東,同西,佐都東,同西,那珂東,同西の各郡)に勢力を張った国司級の武士団惣領であった。父隆義が京都で平氏にくみしたため,1180年(治承4)10月源頼朝に攻められた。82年(寿永1)秀義が隆義の死の跡を継ぐと,反鎌倉の姿勢を改め,とくに89年(文治5)の奥州征伐に際しては進んで幕下にはせ参じた。
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関連語 小田

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐竹秀義」の解説

佐竹秀義 さたけ-ひでよし

1151-1226* 平安後期-鎌倉時代の武将
仁平(にんびょう)元年生まれ。佐竹隆義(たかよし)の子。治承(じしょう)4年源頼朝の挙兵の際,平氏方についたため追討をうける。常陸(ひたち)(茨城県)金砂山(かなさざん)城にたてこもったが,叔父佐竹昌成(まさなり)の内通により落城,領地を没収された。文治(ぶんじ)5年頼朝軍の奥州攻めに参加してゆるされ,御家人にくわえられた。嘉禄(かろく)元年12月18日死去。75歳。

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世界大百科事典(旧版)内の佐竹秀義の言及

【佐竹氏】より

…常陸出身の中・近世の武家。清和源氏(図)。新羅三郎義光が兄義家に協力するため常陸介として下向し,子義業が久慈郡佐竹郷を領有,孫昌義が母方について土着し,奥七郡を支配して佐竹冠者とよばれるようになった。昌義の子と思われる義宗は下総国相馬御厨の預職に任命されている。源頼朝挙兵に当たっては,秀義が平氏に荷担して頼朝包囲に加わったが,1180年(治承4)逆に頼朝によって金砂山に攻められ,奥州に敗走,父祖の地を失った。…

※「佐竹秀義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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