精選版 日本国語大辞典 「北野鞠塢」の意味・読み・例文・類語 きたの‐きくう【北野鞠塢・北野菊塢】 本草家。文人。仙台の人。江戸に住み、文化元年(一八〇四)、隅田川畔の寺島村(東京都墨田区東向島)に植物園「百花園」を開いた。佐原鞠塢とも。宝暦一二~天保二年(一七六二‐一八三一) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
朝日日本歴史人物事典 「北野鞠塢」の解説 北野鞠塢 没年:天保2.8.29(1831.10.4) 生年:宝暦12(1762) 江戸後期の文人,本草家。姓は佐原,幼名は平八。仙台に生まれ,天明年間(1781~89)江戸に出て中村座の芝居茶屋に奉公。のち日本橋住吉町に骨董屋を開き財をなし,北野宇兵衛,菊屋宇兵衛のち剃髪して鞠塢などと称する。文化1(1804)年所払いとなり,向島寺島村に3000坪の土地を買い百花園を営む。加藤千蔭,村田春海,大田南畝,亀田鵬斎,大窪詩仏ら著名な文人の協力により,梅樹を植え文人趣味の作庭の名園とする。『都鳥考』で墨田川の都鳥は鴎の一種と説く。<著作>『春野七草考』『秋野七草考』『群芳暦』『墨水遊覧誌』<参考文献>上野益三『日本博物学史』 (遠藤正治) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北野鞠塢」の解説 北野鞠塢 きたの-きくう 1762-1831 江戸時代後期の本草家。宝暦12年生まれ。江戸で骨董(こっとう)店をひらく。文化元年加藤千蔭(ちかげ)ら文人の協力をえて向島寺島村に花木や草花をあつめ,向島百花園をひらいた。天保(てんぽう)2年8月29日死去。70歳。陸奥(むつ)仙台出身。本姓は佐原。名は秋芳。著作に「春野七草考」「都鳥考」など。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例