千綿村(読み)ちわたむら

日本歴史地名大系 「千綿村」の解説

千綿村
ちわたむら

[現在地名]彼杵八反田郷はつたんだごう千綿宿郷ちわたしゆくごう瀬戸郷せどごう駄地郷だじごう中岳郷なかたけごう浦郷うらごう遠目郷とおめごう平似田郷ひらにたごう木場郷こばごう蕪郷かぶらごう里郷さとごうひと石郷いしごう

現町域の南東部に位置し、北部を千綿川が流れる。南西側の海沿いに長崎路が通り、宿駅が置かれた。南部の海に突き出したくし島で箱式石棺が多数出土、くし川流域には巡礼じゆんれい塚・入道にゆうどう塚とよばれる古墳がある。北の串川上流の弘法こうぼう谷は古来の霊場という。千綿川右岸の田原たわらにあるなかつぼは古代条里を示す数詞坪地名の可能性がある。中世は彼杵そのき庄内で、千綿浦などとみえる。東部の中岳郷より太ノ浦郷に通じる三郎さぶろう越は建武新政の際に尊良親王を奉じて挙兵した江串三郎が越えた道という。近世には江串えのくし村・鹿丸かのまる村を含む場合がある。江戸時代初期、南部のひといしに肥前佐賀領境の藤津ふじつ口の押えとして武士団が置かれ、耕地の開発が進むが、千綿高原(のち大野原牧場)の同じく佐賀領境の太ノ浦についても琴平ことひら山に監視隊を配置、その家臣らの居住に伴い開発された。その南の木場も江串鉄砲組による開発が始まりという。

慶長一〇年(一六〇五)の大村領内高目録に「千綿村」とみえ、高七二〇石余で、田三九町七反余・畠四〇町余、物成三九六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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