南部仏印進駐(読み)なんぶふついんしんちゅう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南部仏印進駐」の意味・わかりやすい解説

南部仏印進駐
なんぶふついんしんちゅう

1941年7月,日本軍がベトナム南部に進駐した事件。 40年の北部仏印進駐に続いて,41年,大本営政府連絡会議で進駐の方針が決定され,御前会議でこれを確認し,この目的達成のためには「対英米戦を辞せず」とした。7月に日本政府はフランスビシー政府に対して進駐を受諾させ,同 28日,日本軍は上陸を開始した。 29日には,仏印共同防衛に関する日仏間議定書がビシーにおいて署名された。これはアメリカを強く刺激し,7月 25日,F.ルーズベルト大統領は在米日本の資産凍結令を公布し,イギリスオランダもそれに追随した。8月アメリカは対日石油全面的禁輸に踏切った。この進駐は日米戦争の直接契機となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「南部仏印進駐」の解説

南部仏印進駐
なんぶふついんしんちゅう

1941年7月,日本軍によって行われた南部フランス領インドシナ占領
大東亜共栄圏の自給自足ブロック建設をめざし,まず1940年9月,第2次近衛文麿内閣は北部仏印に進駐した。さらに日独伊三国同盟日ソ中立条約によって,南北両面作戦を南進政策に統一した上,'41年7月,第3次近衛内閣は南部仏印に進駐。アメリカと全面的に対立するに至った。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「南部仏印進駐」の解説

南部仏印進駐
なんぶふついんしんちゅう

仏印進駐(ふついんしんちゅう)

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世界大百科事典(旧版)内の南部仏印進駐の言及

【仏印進駐】より

…フランスは7月21日にほぼ日本の要求を受諾し,23日には現地で細目の話合いが成立した。7月28日日本軍は南部仏印へ上陸を開始し,29日仏印共同防衛に関する日仏議定書が調印された(南部仏印進駐)。これにより日本の東南アジア侵略の方針が明確となり,日本とアメリカ,イギリス,オランダ3国との対立が決定的となると同時に,日本はインドシナの民族解放運動と対決することになった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」