太平洋戦争前における日本軍の2度にわたるフランス領インドシナ占領。日中戦争解決の目途を失った日本は,1940年6月フランスがドイツに降伏したのに乗じ,援蔣ルートの切断と東南アジア侵略の前進基地獲得をめざし,国境監視,日本軍の仏印領内通過,飛行場使用などをフランスに要求した。富永恭次参謀本部第1部長らの強硬意見にもとづき現地交渉の結果,9月22日平和進駐に関する協定が成立したが,23日現地の陸軍第5師団の一部が鎮南関付近で独断越境してフランス軍と交戦し,25日フランス軍は降伏した(北部仏印進駐)。そのため日本とアメリカ,イギリスとの対立が強まり,アメリカは9月26日屑鉄の対日禁輸を発表し,イギリスも10月18日援蔣ビルマ・ルートを再開した。ついで日米交渉が難航し,独ソ戦争が開始された直後の41年6月25日,大本営政府連絡会議は〈南方施策促進に関する件〉により,南方作戦準備のため,仏印との軍事的結合関係の設定,新たな飛行場と軍港の確保,日本軍の南部仏印への進駐の諸要求を武力をもってでも貫徹するとの強硬方針を決定した。フランスは7月21日にほぼ日本の要求を受諾し,23日には現地で細目の話合いが成立した。7月28日日本軍は南部仏印へ上陸を開始し,29日仏印共同防衛に関する日仏議定書が調印された(南部仏印進駐)。これにより日本の東南アジア侵略の方針が明確となり,日本とアメリカ,イギリス,オランダ3国との対立が決定的となると同時に,日本はインドシナの民族解放運動と対決することになった。
執筆者:木坂 順一郎
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日本が、対独降伏後のフランスのビシー政権を圧迫し、協定によって行った仏領インドシナの軍事占領。日本の南進政策の重要な一歩として太平洋戦争の原因の一つとなった。(1)北部仏印進駐。援蒋(えんしょう)ルート遮断の名目で1940年(昭和15)8月30日に日本軍隊の通過、飛行場使用、駐兵を認める松岡‐アンリ協定が締結された。9月23日から南支那(しな)派遣軍所属の2万5000の兵が進駐したが、その際一部部隊は平和進駐の約束を無視し武力進駐を強行した。(2)南部仏印進駐。南方作戦のための基地獲得のねらいで、1941年7月28日から行われた。フランスは日本の要求をのみ、日仏議定書(同29日調印)の締結に応じたので、無血進駐となった。しかし、これにより日米関係は極度に悪化し、アメリカは在米日本資産の凍結(7月25日)、対日石油輸出の全面禁止(8月1日)に踏み切り、イギリス、オランダもこれに倣った。
[荒井信一]
太平洋戦争前の日本軍によるフランス領インドシナへの進駐。北部進駐と南部進駐の2段階からなり,日本の南進政策の具体化として英米の強い反発を招いた。(1)北部進駐。第2次大戦でのフランスの対ドイツ降伏をうけて,日本は援蒋ルート閉鎖の監視と基地確保を狙って交渉を開始した。1940年(昭和15)8月30日,松岡洋右(ようすけ)外相とアンリ大使の間で松岡・アンリ協定が東京で成立し,日本軍はトンキン州の4飛行場を使用できるようになった。このことは,中国を裏面からおびやかすだけでなく,フィリピン,インドに対しても重大な脅威となった。アメリカは9月26日屑鉄の対日全面禁輸をもって応じた。(2)南部進駐。日米関係の悪化とともに,日本は南方作戦基地確保のためフランスのビシー政権との交渉に入り,41年7月29日,日仏議定書が調印された。アメリカは7月25日に対日資産凍結令,8月1日に対日石油禁輸の経済制裁措置をとった。
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