日中戦争開始後に本格化した日本の南方地域への進攻政策で、1935年(昭和10)に海軍によって唱えられた。陸軍の華北進出に対抗し、かつ「日満支経済ブロック」の建設によっても不足する軍需資源を南進によって確保することを意図したものである。従来の北進政策に加えて、南進が国策に登場するのは36年8月、広田弘毅(こうき)内閣の五相会議で「国策の基準」が決定されてからで、以後各内閣はそれを推し進めた。39年2月の海南島占領、続く3月の南部仏印(フランス領インドシナ)の新南群島の占領、6月の汕頭(スワトウ)、福州などの占領による華南沿岸の封鎖強化はその具体化の第一歩であった。同年9月、第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、英仏勢力がアジアから後退した機会を利用して、南進政策はいっそう積極化し、華南、仏印と蘭印(らんいん)(オランダ領インドシナ、現インドネシア)の二方面に進められた。米内光政(よないみつまさ)内閣も南方への経済進出外交を推進、蘭印からの戦略物資輸入を部分的に実現するとともに、40年6月の日タイ友好条約で南方進出の足場を確保した。
1940年7月に成立した第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は、「基本国策要綱」を閣議決定し、南方地域を包含する自給圏としての大東亜新秩序建設を国策の基本として明示した。また大本営政府連絡会議は「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決め、仏印の軍事基地化、蘭印の重要資源確保の方針を示し、従来の南北並進政策から漸次南進政策への移行を打ち出した。これに基づき9月には北部仏印進駐を強行するとともに、日独伊三国同盟を締結した。41年7月、御前会議は「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」を決め南進政策を強化、対米英戦も辞さない方針を固めた。
その後、日本の南部仏印進駐に対し、米英蘭は対日資産の凍結、対日石油輸出の禁止で対抗、日本は対米交渉を進める一方で開戦準備を整えた。1941年9月の第一次「帝国国策遂行要領」で、10月下旬までに日米交渉が妥結しなければ開戦することを定め、11月の第二次「帝国国策遂行要領」で対米英蘭戦争を決定、12月8日太平洋戦争に突入した。日本は緒戦の勝利で南方諸地域を占領し、軍政を敷いたが、戦局の悪化とともに現地民衆の抗日運動が活発化し、日本の敗戦で「大東亜共栄圏」はあえなく崩壊した。
[粟屋憲太郎]
『藤原彰著『昭和の歴史5 日中全面戦争』(1982・小学館)』▽『木坂順一郎著『昭和の歴史7 太平洋戦争』(1982・小学館)』
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…日本は15年戦争期において,南方に進出し大東亜共栄圏を建設することによって不足がちの資源を確保し,自給自足地帯をつくろうとした考え方。南進政策ともいう。しかし南進論そのものは,日清戦争以前からあった。…
※「南進政策」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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