日本歴史地名大系 「古府中村」の解説 古府中村こふちゆうむら 山梨県:甲府市旧山梨郡地区古府中村[現在地名]甲府市古府中町・美咲(みさき)一―二丁目・天神町(てんじんちよう)・武田(たけだ)三―四丁目・宮前町(みやまえちよう)・大手(おおて)一―三丁目・屋形(やかた)一―三丁目・西田町(にしだちよう)・北新(きたしん)一―二丁目甲府城下の北にあり、北は下積翠寺(しもせきすいじ)村。戦国期武田氏の本拠地であった甲府(府中)は、天正九年(一五八一)武田勝頼が移転した新府(現韮崎市)に対して一時期古府中と称した。その後南部の商工業者居住区域が文禄年間(一五九二―九六)からの甲府城建設に伴い新城下に組込まれ、北部の東西八町五〇間・南北一五町二間は古府中村として再設定された。諸士宅・寺社の新城下移転後の跡地は周辺から人戸を集めて開墾され、日影(ひかげ)・峯本(みねもと)・塔岩(とういわ)・昌栄(しようえい)(正永)・東(ひがし)の五組に分れて居住したという。躑躅が崎(つつじがさき)館の北側は日影組、梅翁(ばいおう)曲輪の西が峯本組、その南西が塔岩組、南端にあって最も城下に近かったのが昌栄組で、東組は館東側の大泉寺(だいせんじ)小路に門前屋敷と混在していた。うち塔岩組は同名の村からの移住者が多かったことによる(以上「甲斐国志」など)。昌栄組南の増山(ますやま)通は地籍上当村分であった。慶長一六年(一六一一)の再検地帳(県立図書館蔵)には武田時代のものを受継ぐとみられる町名・小路名・屋敷名がみえ、文化三年(一八〇六)の書上帳(西山梨郡志)でも横田(よこた)・土屋(つちや)・曲淵(まがりぶち)・小山田(おやまだ)・天久(てんきゆう)・長閑(ちようかん)・甘利(あまり)などの字名がみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by