各務郡(読み)かかみぐん

日本歴史地名大系 「各務郡」の解説

各務郡
かかみぐん

和名抄」東急本国郡部の訓注に「加々美」とある。史料上の初見は大宝二年(七〇二)の御野国戸籍の「各牟郡」で、加毛郡半布里戸籍に「各牟勝族田弥売」もみえ、奈良時代にはカカムであったことは確かだが、文武天皇三年(六九九)の藤原宮跡出土木簡に「(表)己亥年九月三野国各(美カ)」「(裏)奴麻里五百木部加西□」とあり、「各」の次の字が「美」の残画らしくみえ、七世紀末にはすでにカカミに変わっていたかもしれない。近世の郡域は北は武儀むぎ郡・山県やまがた郡、東は加茂郡、西は厚見あつみ郡・羽栗はぐり郡、南は木曾川を挟み尾張国丹羽にわ郡に接し、現在の各務原かかみがはら市の大部分、岐阜市の東部にあたる。明治三〇年(一八九七)稲葉いなば郡の一部となり、郡名は消滅した。

〔古代〕

「和名抄」高山寺本は六郷、東急本は駅家うまや郷を加え七郷を記載し、諸本とも訓を欠く。各務野かかみのとよばれる台地とその周辺を占め、南は木曾川を隔てて尾張国に接した。ただし当時の木曾川は現在の流路より北方を流れ、各務原台地の辺縁部に沿って西流していたとみられる。台地が切れる辺りからは現在のさかい川を本流としていた。郡名の初見は前掲藤原宮跡出土木簡で、美と思われる文字の後は欠落しているが、おそらく評の文字が続いていたのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報