美濃国(読み)ミノノクニ

デジタル大辞泉 「美濃国」の意味・読み・例文・類語

みの‐の‐くに【美濃国】

美濃

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日本歴史地名大系 「美濃国」の解説

美濃国
みののくに

古代

〔ミノの用字〕

藤原宮跡出土の天武天皇一二年(六八三)の木簡に「三野大野評」とみえるように、七世紀には「三野」と表記されていたが、大宝二年(七〇二)一一月頃に「御野」と改訂されたと推測される。同年の御野国戸籍(正倉院文書)の表記はこれを物語るが、律令政府の全国的な国名用字の統制・定着化という意図によって、慶雲四年―和銅元年(七〇七―七〇八)に「美濃」と再改訂され、定着した。この「美濃」の用字は現在も生き続けているが、定着後にみえる「美乃」の用字は略称とみるべきであろう。ここでは叙述上の便宜から、全体を通して「美濃」と表記することにしたい。

〔美濃地方の国造〕

美濃地方で最古の古墳は南濃地域の円満寺山えんまんじやま古墳(海津郡南濃町)で、四世紀半ばの築造とみられることから、この地域はそれ以前に大和勢力の傘下に入ったとみることができる。そして「日本書紀」景行天皇二七年一〇月条に、日本武尊が熊襲征討にあたって美濃地方から「善射者よくいるひと」を求めたという伝承が載り、大化前代のある時期に美濃地方が大和勢力の傘下にあって、その軍事的な役割を担っていたことが推測できる。また同書雄略天皇七年八月条には、山陽道筋に独自性をもち続けた吉備臣豪族連合が、おそらく五世紀末―六世紀前半に反乱を起こしたとき、「身毛君大夫」が吉備に派遣された伝承を載せている。この「身毛君大夫」は美濃地方の牟義都国造氏であった身毛君氏から中央へ貢進され、大王親衛軍の一翼を担った勇健な舎人と解され、この時期に身毛君氏が、大和朝廷に忠実な結び付きをもっていたことを物語るものであろう。

美濃地方の国造には、諸史料に牟義都国造のほかに、本巣国造・額田国造・三野前国造・三野後国造・美濃国造(三野国造)などがみえるが、本巣国造=美濃国造=三野前国造と推測される。額田国造は、その所在が現在の滋賀県東部地域ないし岐阜県西濃地域の中・北部であろうが、美濃地方であったとする確証がいま一つ不足している。三野後国造は物部氏による後の造作であり、国造としての実態はなかったとする推測もある。乙巳の変、いわゆる大化改新後ほどなく、新政府が尾張と美濃とに神に供する幣物を課したのは、七世紀半ばの両地方が大和朝廷勢力の忠実な服属領域の東端に位置していたことを物語るものといえよう。

〔壬申の乱と美濃〕

天武天皇元年六月に勃発した壬申の乱で、大海人皇子は「美濃国安八磨郡」(正しくは三野国味蜂間評)湯沐邑ゆのむらを挙兵根拠地とした(日本書紀)

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改訂新版 世界大百科事典 「美濃国」の意味・わかりやすい解説

美濃国 (みののくに)

旧国名。濃州。現在の岐阜県南部。

東山道に属する大国(《延喜式》)。7世紀には〈三野〉と表記され,その確実な初見は藤原宮跡で出土した683年(癸未年)7月付の,三野大野評(こおり)阿漏里からの貢進物荷札木簡である。702年(大宝2)ころに〈御野〉と改定され,さらに708年(和銅1)前後に〈美濃〉と公定され,定着化した。古墳は古木曾三川(木曾,長良,揖斐(いび)川)が伊勢湾に注ぐ河口近くに,4世紀半ばころの前方後円墳である円満寺山古墳が姿をみせ,ついで三川をそれぞれさかのぼって,はじめて地形的な障壁につきあたった地域に,4世紀後半の前方後円墳が築造された。つまり三野地方は,遅くとも4世紀半ば以前にヤマト勢力の傘下にはいり,その勢力が東国地方へ浸透するための後詰基地的な役割を担った。そしてこの三野国が大きく脚光をあびたのは,672年の壬申(じんしん)の乱であり,三野国味蜂間評(あじはちまのこおり)の湯沐邑(ゆのむら)が吉野(大海人皇子)方の挙兵根拠地とされ,また吉野方の全軍が和蹔(わざみ)(関ヶ原)に結集して攻勢に転じた。三野国の農民は吉野方の中核として,その勝利に貢献したのである。

 美濃は律令三関の一つである不破関を管理した関国であったが,8世紀末ころに,《延喜式》に規定されるように,史生(ししよう)の定員を大国扱いにした上国に改訂された。しかし,国司四等官の実態は,10世紀にいたるまで一貫して大国の定数を示している。国府は不破郡に置かれ,現在の岐阜県不破郡垂井(たるい)町府中に方8町の国府域が想定されている。8世紀初めころの美濃国は14郡であったが,715年(霊亀1)本巣郡東部を割いて席田(むしろだ)郡を分置し,8世紀末~9世紀前半に安八郡から池田郡が分建された。また855年(斉衡2)には多芸(たき)郡から石津郡,武義(芸)(むげ)郡から群上(ぐじよう)郡が分置され,18郡体制になった。そして741年(天平13)の勅による国分寺は現在の大垣市青野町に造営され,不破郡垂井町平尾に国分尼寺跡の有力候補地がある。

 《延喜式》は都へ調庸を運搬する日数を上り4日,下り2日と規定している。古代美濃の特産品といえるのは,美濃広絹として知られる絹・絁(あしぎぬ),陶器,紙などである。また美濃国には奈良時代から勅旨田が置かれたが,桓武天皇の勅旨田を伝領した皇女朝原内親王が818年(弘仁9)東大寺に施入(せにゆう)した茜部(あかなべ)荘,756年(天平勝宝8)の勅施入と伝える東大寺領大井荘などの寺領荘園がある。皇室領荘園も多く,また藤原良房が872年(貞観14)に没すると,美濃国に封ぜられたことと対応して摂関家領も少なくない。そして平安後期に駅制が衰微し,東国との交通が安八郡の墨俣(すのまた)から尾張国へ入る経路をとるようになると,軍事・交通上の要衝といえる美濃国には清和源氏の一流として美濃源氏が登場し,しだいに国内各地に根を張るようになった。
執筆者:

美濃国における荘園公領制の大きな特徴は,国衙領,皇室領,摂関家領など王朝国家の直接の経済的基盤をなすものが,寺社領荘園にくらべて広大な規模をもち,濃密に分布していたことである。すでに1119年(元永2)美濃国が院の分国であったことが知られ,ここで成立した国衙領を基軸とする体制は,中世を通じて美濃国の状況を大きく規定した。1306年(徳治1)の昭慶門院御領目録にしるされている26ヵ所の美濃国衙領は,美濃国18郡中8郡に分布し,とりわけ不破,安八,大野など条里制の遺構の分布の著しい肥沃な平野部に集中し,また不破関などの軍事・交通の要衝,陶器所などの産業の拠点を含んでいる。さらにこのほか美濃国と記載された課役15万疋の国衙領が存在していた。東大寺領茜部荘の年貢が絹100疋,綿1000両であったことをみれば,国衙領の規模がいかに大きかったかを知ることができる。

 平安時代末から鎌倉時代にかけて数多くの皇室領荘園がもうけられたが,これも美濃国が院の分国であったことが大きく影響しており,濃尾平野の条里水田地帯に多い。これらの皇室領荘園は,荘園群として女院(によいん)領,御願寺(ごがんじ)領というかたちで伝領された。後白河院によって12世紀末に創設された長講堂領に含まれる荘園には平田荘(鶉,革手,市俣,加納),蜂屋荘など,七条院領には鵜飼荘,弾正荘,美濃国分寺,八条院領には多芸荘,古橋荘など,歓喜光院領には久々利荘,鵜沼荘などがあり,その数は膨大なものであった。摂関家領は,現在25ないし26ヵ所が確認されており,これらの荘園のほとんどが摂関政治後期から院政初期に摂関家の支配下に入った。これらの荘園の分布は,武芸郡の揖深(いぶか)荘,武義荘,上有智(こうずち)荘など7ヵ所,賀茂郡の蜂屋本荘,河辺荘など5ヵ所,恵那郡の遠山荘,郡上郡の気良(けら)荘など,東部および北部の山間部に集中し,南西部のひらけた平野部に位置するものは,わずか1~2ヵ所にすぎないという特徴をしめしている。この特徴は,揖斐川,長良川,津保川,飛驒川,可児(かに)川などの河川によってきりこまれた東部,北部の谷間に,新たな中世開発の道をえらんだ中世武士団美濃源氏と摂関家との結びつきより,これら美濃摂関家領が成立したことを物語っている。寺領荘園としては,東大寺領大井荘,茜部荘をはじめ,延暦寺領平野荘,小島(おじま)荘など,醍醐寺領帷(かたびら)荘,船木荘などがあり,社領荘園としては,伊勢神宮領中河御厨(みくりや)などのほか石清水領泉江荘,賀茂社領梅原荘などがあった。ところで,これらの美濃国の荘園公領で注目される特徴は,田地に絹何疋というかたちで年貢が賦課され,ほとんど例外なしに絹を中心として,糸を交えた年貢が納入されている点である。美濃国は,この点よりいえば,この時代中央との間がその特産物たる〈八丈絹〉でつながっていたといえるであろう。

中世の美濃国を主導した武士団は,清和源氏の一流で,美濃に土着した,いわゆる美濃源氏(みのげんじ)である。清和源氏の祖経基王をはじめ,その子満仲,満政,孫の頼光,頼信など美濃守に任ぜられたものが多く,彼らは任国でその基盤を徐々に形成していった。その流れの主たる系統は,満政の曾孫重宗を祖とする重宗流と,頼光の子頼国の流れで,この流れはのちに土岐氏を称する国房流と,山県郡に土着しのち山県氏を名のった頼綱の流れに大別される。国房流が院と結びついて光信,光保のように検非違使(けびいし)となって主として京都で活躍するのに対し,重宗流は比較的早い時期に方県郡を中心に土着し,院分の国衙領をおさえて勢力を拡大するといった対照的な歩みをみせるが,ともに平安末から鎌倉初期の争乱のなかで,中央政界の複雑な動きにほんろうされて打撃をうけ,武家の棟梁への道をとざされてしまった。

 鎌倉幕府の成立とともに大内惟義が守護に任ぜられ,これら美濃の武士も御家人に組織された。承久の乱においては,守護大内惟信をはじめ重宗流の山田氏,高田氏,開田(かいでん)氏ら美濃の武士の多くは京方につき,その敗北により大きな打撃をうけた。乱後,守護も宇都宮氏に変わるとともに,市橋荘に石川氏,彦坂郷に片桐氏,大桑郷に逸見(へみ)氏など,新たに源氏の地頭が入り,美濃の武士団の状況は大きく変化した。しかし土岐光行は幕府側にたち,饗庭(あえば)荘などを恩賞として与えられ,再び美濃の雄族としての地歩をかため,守護となった北条氏の得宗と結ぶなどして勢力を拡大していった。

 南北朝の内乱にさいし,土岐頼貞は足利方につき,1336年(延元1・建武3)にはすでに美濃国守護に任ぜられ,その後も国内外の南朝勢力の鎮圧などに功績をあげ,戦国時代まで200余年間土岐氏が美濃国の守護職を保持する基礎をかためた。この土岐氏の実力は,鎌倉時代以来国内に分布した一族を中心とする強力な軍事力と,半済(はんぜい)などによって国内の膨大な国衙領を手中にした経済力にもとづくものであった。その後将軍足利義満は,土岐氏の乱を誘発するとともに,国内に分布した土岐氏一族および有力国人を奉公衆(直轄軍)に吸収し,土岐氏の強大化をけんせいした。石谷(いしがい),多治見,揖斐,明智氏などの土岐氏一族をはじめ,東濃の遠山氏,郡上の東(とう)氏,西濃の宇都宮氏,山県郡の山県氏,武儀郡の佐竹氏などが奉公衆に編成されたのである。これに対して土岐氏は,かつての目代の系譜をひく斎藤氏を守護代に任じ,斎藤氏に支配の実権をゆだねるというかたちで領国を安定化させていった。応仁・文明の乱に際し,土岐氏は西軍につき在京して戦ったが,留守をまもった斎藤妙椿(みようちん)は,国内の荘園,公領をほとんど手中におさめ,その意志が乱の動向を決定するほどの実力を確立した。この乱中の国内安定は,革手城下の繁栄をもたらし,一条兼良をはじめ多くの文化人が城下にあつまり,ここに一大文化圏が形成された。しかし1496年(明応5)妙椿の子妙純が戦死すると,国内は混乱におちいり,やがて支配の実権は斎藤氏の家宰長井氏にうつり,長井新左衛門尉の子斎藤道三が1552年(天文21)土岐頼芸(よりのり)を追放し,美濃国を領するにいたった。しかし,道三のもとでも国内の混乱はおさまらず,隣国の織田,朝倉氏などの侵攻がたえなかった。そして,ついに67年(永禄10)道三の孫竜興のとき,織田信長に国を奪われ,美濃の戦国の争乱は終止符をうった。

中世美濃の仏教は,鎌倉時代なお天台・真言の二宗が主たる位置をしめていたが,室町時代に禅宗が土岐氏の保護をうけ興隆し,ややおくれて浄土真宗が各地に形成されつつあった惣村のなかに浸透し,戦国時代には民衆にささえられた真宗王国が築きあげられた。土岐氏の初代守護土岐頼貞は無学祖元に深く帰依し,定林寺(じようりんじ),永保寺,竜門寺などの開基となり,以後の美濃における禅宗興隆の基礎をかためた。土岐氏の帰依した禅は,将軍足利氏の帰依した五山派を中心とするもので,土岐氏の保護のもと正法寺,瑞巌寺,大興寺などの五山派寺院が多く建立されたが,やがて守護代斎藤氏の台頭とともに,美濃の禅宗は五山派から妙心寺派へと転回していった。斎藤氏一族の帰依により愚渓寺,汾陽寺などがたてられ,戦国時代にはこの林下の禅が美濃の禅宗の主流をしめるにいたった。美濃における浄土真宗の伝播は,1235年(嘉禎1)門真荘の河野道勝ら9人が,親鸞を河野の木瀬の草庵に招いたことよりはじまると伝え,しだいに美濃西南部に浸透していった。戦国時代,蓮如がでるにおよんで天台・真言などの諸寺で改宗するものも多く,またあらたに道場が開設されるなどして,その教線は飛躍的に拡大した。この真宗伝播の過程はまず木曾川,揖斐川,長良川などの下流地域に,ついで郡上,揖斐郡などの山間部,さらに平野部へという経路をとっている。
執筆者:

美濃国の近世は,織田信長が稲葉山城(岐阜城)と,その麓の井ノ口改め岐阜城下町とを拠点にして,〈天下布武〉への一歩を踏み出した16世紀後半からはじまる。しかし信長・信忠の死後は領主の変動著しく,近世の政治体制は1600年(慶長5)の関ヶ原の戦を経て形成された。

 すなわち関ヶ原の戦に勝利して美濃を掌握した徳川家康は,一方では中山道沿いの加納に女婿奥平氏を封ずるなど,西国の押えを強く意図した大名配置を行い,その主軸に尾張藩をすえた。他方では岐阜城を廃し,美濃の幕領支配と,当国の役人足徴収や木材採運河川の管理などを行う代官頭,のちの美濃国奉行大久保長安の役所を岐阜町においた。しかし19年(元和5)に岐阜町が尾張藩領に編入され,国奉行岡田氏の役所が可児郡に移されるに及んで,岐阜町は尾張藩領の一商工業都市に変貌した。そして,尾張藩は13万3000石余を領する美濃最大の大名であったばかりか,木曾,長良,揖斐の三川の材木改めや主要湊の支配,さらに岐阜以外に現在の中津川,大井(現,恵那市),太田(現,美濃加茂市),上有知(こうずち)(現,美濃市),竹ヶ鼻(現,羽島市)つまり近世の主要都市も掌握するという,かつての大久保,岡田氏にかわって,幕府の美濃統治を代行する存在となった。そして以前の代官頭,美濃国奉行は,3代名取半左衛門のときに役所が笠松に移され,18世紀前半の享保~元文期(1716-41)には,国内の諸代官が統廃合されて笠松郡代(美濃郡代)一本の所管となったという動きとともに,幕府直轄領支配を主要な任務とするものへと変化していった。

豊臣秀吉による1589,90年(天正17,18)の太閤検地,大久保長安の行った1609,10年の石見検地を出発点として,17世紀の中ごろから後半の元禄期ごろにかけて,単婚小家族自営農民を基本とする近世村落が,美濃平野部では頭分(かしらぶん)制村落として形成された。中世土豪の系譜をひき,庇,白壁,裃,苗字などの諸特権をもち,村役人を独占する頭百姓が,成長した小農などの一般農民,すなわち脇百姓の攻撃からその諸特権を守るため,それらを村法に規定した。美濃における兵農分離の特徴,小農自立のありかたがここに特徴的にしめされている。

美濃のおもな水系は,木曾,長良,揖斐,矢作(やはぎ),土岐の5水系であるが,材木搬送,船運,また水害・治水上おもに問題となったのは木曾,長良,揖斐の三川であった。木曾川水系では,兼山(かねやま)・大脇(現,可児市),錦織・黒瀬(現,八百津町),金山(現,下呂市),下麻生(現,川辺町),笠松・円城寺(現,笠松町)などが主要な湊であり,錦織,金山,下麻生には材木間尺改め,役銀徴収の役所が置かれていた。長良川水系には,上有知,鏡島(かがしま)(現,岐阜市),本郷湊(現,羽島市)などがあり,立花役所,岐阜の長良川役所が置かれていた。揖斐川水系では材木間尺改め,役銀徴収の久瀬川六分一役番所のあった北方や大垣,房嶋(ぼうじま)(現,揖斐川町),舟付・栗笠・烏江(現,養老町),今尾・太田(現,海津市)などが主要な湊であった。これらの多くは慶長期(1596-1615)には材木の流下,船運の拠点であって,それゆえに家康の,ついで尾張藩の支配するところとなったが,大垣藩の城下船町の整備とか,城下町加納への船運ルート開設の試みなど,城下町を中心とした流通網の整備・拡充の動きや,商品経済の発展を背景とした新しい湊の発展などによって,これらの旧来からの湊のもつ特権や経済的地位が脅かされる事態が生じた。長良川水系での鏡島湊と大野湊,本郷湊と間島,竹ヶ鼻村との対立,揖斐川水系での大垣湊と舟付,栗笠,烏江との争論などがそれである。

全国的にも,また美濃国内でも幾ヵ所かで行われていた鵜飼いのなかで,長良川の鵜飼いは,尾張藩の支配下にあって,将軍家献上ということで,鵜匠,御鮨屋に対する保護はもちろんのこと,幕府法令をもって長良川水系を鵜飼い最優先の川となし,鮎鮨の江戸搬送には老中奉書をもって,東海道宿継ぎを確実ならしめるなど,特別の保護や特権が与えられていた。また,19世紀に入ると,近代以降の観光鵜飼いの出発ともいうべき庶民の鵜飼い見物船が多数出るようになった。

木曾,長良,揖斐の三川は濃尾平野の西端に集中して海に注いでおり,またそれぞれの流路の複雑さとあいまって,西南濃地方に水害を集中させた。1600年以降明治初年までに記録に残る水害は,350件をこえ,それも1700年代,とくに1750年代以降に急増している。その転換期が,薩摩藩による三川分流工事が行われたころであることが注目される。

 さて,濃尾の治水事情を大きく左右する木曾川築堤工事は,早くも秀吉が文禄年間(1592-96)に行い,江戸幕府による1609年の御囲堤(おかこいづつみ)築造が知られる。これらの大工事と,尾張藩の木曾山,木曾川の一元的にして強力な支配とが,美濃側の木曾川堤は対岸の御囲堤より3尺低くしなければならない,との伝承を生む一因となった。ともかく水害多発地帯である当国では,17世紀中ごろまでに岡田善同(よしあつ)・善政父子によるとされる〈将監定法〉ないし〈美濃国法〉と呼ばれる当国独自の普請制度が成立した。これによるような国役普請(くにやくぶしん)は,享保~宝暦期(1716-64)に中断されるものの近世を通じて50件にせまり,18世紀中ごろ以降にはじまる遠隔地大名に課せられた御手伝(おてつだい)普請は十数件,そのほか幕府の手による御救普請,大名手限普請,それに地元農民の手による自普請など大小さまざまな治水工事が行われた。1703年(元禄16)に続く05年(宝永2)の三川をはじめとする美濃諸河川の河道整理(大取払)の国役普請,54年(宝暦4)にはじまる油島締切と大榑川洗堰(あらいぜき)築堤による三川分流の薩摩藩御手伝普請--40万両の出費と藩士その他の犠牲者80余名(宝暦治水事件)--などは,大規模な工事の一つとして有名だが,これらの工事を余儀なくさせた水害多発の原因に,河床の上昇や遊水池の減少,排水の困難さなどがあり,それがおもに新田開発の進行によるものであったということが注目される。

美濃南,西部の水場地帯に特有な治水対策である輪中(わじゆう)は,中世末からはじまり,近世前期には福束(現,輪之内町),墨俣輪中などの形成をみるが,本格的な形成は近世中期以降である。低湿地や遊水池の開拓それ自体が輪中の形成として行われ,そしてそのことが河道の固定化,狭隘化をもたらして水位を上昇させ,ために自然堤防上にあった村々も新たなる築堤や堤防のかさあげを余儀なくされる,ということがより大きな輪中形成の一因と考えられている。また先述の三川分流工事が水位の上昇をまねき,流域村々は懸廻し堤,すなわち輪中堤の築造にせまられたとされる。

 ともあれ,輪中堤内の村々は,堤,悪水排除などの問題解決のため輪中組合を組織して結束したが,輪中相互間,また輪中内部でも上流と下流部の利害がしばしば対立して争論となった。なお,当地方に特有の堀田は,輪中内の滞水対策の一つで,近世中期以降に多く出現した。

美濃の特産物,手工業製品で,近世初期より有名なものは,将軍家献上品であった加茂,可児郡の蜂屋柿,本巣郡上・下真桑(まくわ)村(現,真正町)の瓜のほか,戦国期以来の関鍛冶,土岐・可児・恵那郡を中心とする焼物,板取・武儀川流域を主産地とする美濃紙などがあった。中期以降に農村や在郷町に広く浸透したものとして,縮緬生産と桟留縞(さんとめじま),菅大臣縞,結城縞などの綿織物生産,傘製造などがあげられる。縮緬はおもに武儀郡曾代(そだい)(現,美濃市)に集荷される生糸を使って岐阜町周辺で織られ,京都西陣へ出荷されたが,18世紀後半には京都問屋の掌握から脱するため,尾張藩の御蔵物として出荷されるようになった。木綿織物は,およそ境川より南で,長良川と木曾川に囲まれた地域で生産されたが,尾張藩の桟留縞問屋株の設定や北陸,京・大坂商人の進出,福井・紀州藩の産物会所設置などの動きがあり,縮緬と同様に領主と他国商人,地元商人との間で,また地元問屋内部で複雑な利害関係が生じていた。傘は加納を中心にして18世紀後半から生産がのびて,19世紀前半の文政期には,日傘,番傘,小傘,蛇の目傘など年間50万本が生産されて各地へ出荷された。1859年(安政6)加納藩は産物会所によって綛糸(かせいと)とともに傘の専売を図った。

近世を通じて70余件を数える一揆,打毀(うちこわし)の大半は18世紀以降におきている。そのうちの,1754-58年の郡上一揆と,同時期に隣接する石徹白(いとしろ)社領でおきた神主と神頭職との争論とは,郡上藩主金森氏の改易,老中・若年寄・勘定奉行・笠松郡代などの処罰,江戸の講釈師馬場文耕の処刑をともなう大事件となり,幕政転換の重要な契機になったということで有名である。しかし郡上藩領以外では小規模な一揆が多かった。また頭百姓の特権をゆるがす村方騒動や,掟米減額をもとめる小作騒動も多発し,これらは70を越す旗本など小領主の村方支配をしだいに不能ならしめていった。

 一揆増加の18世紀中ごろは,諸領主の年貢徴収が頭打ちになっていくときでもあった。財政窮乏打開のための諸改革には,御用金徴収や有力農民,商人への依存といった共通する傾向がみられるが,幕末期の藩政改革としては,大垣藩の小原鉄心による嘉永・安政改革がよく知られている。

 維新変革期には,苗木,岩村,高富藩のように藩主が最後まで幕府の要職にあったところや,凌霜隊出兵にしめされるように藩論をどちらとも決しかねた郡上藩等々さまざまであったが,尾張藩が佐幕的姿勢をすてて,東海・中部地方の領主層に勤王誘引を働きかけたことの影響は大きいものがあっただろう。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「美濃国」の意味・わかりやすい解説

美濃国
みののくに

岐阜県の南部を占める旧国名。東山道8か国の一つ。東は信濃(しなの)国、西は近江(おうみ)国、南は三河(みかわ)国・尾張(おわり)国・伊勢(いせ)国、北は越前(えちぜん)国・飛騨(ひだ)国に接する。面積約6461平方キロメートル。『和名抄(わみょうしょう)』には多芸(たぎ)、石津(いしづ)、不破(ふわ)、池田、安八(あはち)、大野、本巣(もとす)、席田(むしろだ)、方県(かたがた)、厚見(あつみ)、各務(かがみ)、山県(やまがた)、武芸(むげ)(武儀(むぎ))、群上、賀茂(かも)(加茂)、可児(かに)、土岐(とき)、恵奈(えな)(恵那)の18郡を載せるが、天正(てんしょう)年間(1573~1592)に海西(かいさい)、中嶋(なかしま)、羽栗(はぐり)の3郡が増え21郡となった。木曽(きそ)川、長良(ながら)川、揖斐(いび)川の3川はそれぞれ美濃を貫流し、南西部低地に集まって伊勢湾に注ぐ。南西部の平野以外はほとんど山地で、東部木曽川以南は広大な丘陵地帯である。国名は三野、御野などとも書かれ、濃州(のうしゅう)とも称した。由来は青野、賀茂野(または大野)、各務(かがみ)野の三つの野から三野という説、真野の名義から転化したとする説、一方が山地でわずかな高低のある土地をいうとする説などあって、さだかでない。「美濃」という用字が公定したのは8世紀初めとされる。

 672年(天武天皇1)壬申(じんしん)の乱に大海人(おおあま)皇子は美濃を拠点として挙兵し、村国男依(むらくにのおより)ら地元豪族が活躍した。国の等級は『延喜式(えんぎしき)』では上国(じょうこく)。国府は不破郡の府中(垂井(たるい)町)に置かれた。東山道は近江から入り信濃へ抜けるが、美濃国内に八駅が整備された。不破の関は三関の一つとして設けられた。庸調(ようちょう)は広絹、紙、土器など特産物としての来歴を示すものが多い。荘園(しょうえん)は東大寺領の茜部(あかなべ)荘や大井荘のほか摂関家の多芸荘や栗田(くるすだ)荘なども成立した。源満仲(みつなか)やその子頼光(よりみつ)が美濃守(かみ)になり、その流れをくむ光衡(みつひら)は土岐氏をとなえたが、子孫は美濃源氏として栄え、禅宗に帰依(きえ)した。1542年(天文11)土岐頼芸は斎藤道三(どうさん)に追われ、11代200余年にわたった守護職を失った。道三は稲葉山(岐阜市)を居城としたが、孫龍興(たつおき)の代に織田信長に落とされ、信長が清洲(きよす)から移った。

 1600年(慶長5)関ヶ原の戦いは天下分け目の戦いであったが、美濃は古来東西勢力の争覇地で、壬申の乱をはじめ、1181年(養和1)平重衡(しげひら)・通盛(みちもり)らが源行家(ゆきいえ)を破った墨俣(すのまた)合戦、1221年(承久3)鎌倉幕府軍の西上を阻もうとして京軍が敗れた木曽河畔合戦、1338年(延元3・暦応1)土岐頼遠(よりとお)(足利(あしかが)方)が桔梗一揆(ききょういっき)を率いて鎮守府将軍北畠顕家(きたばたけあきいえ)の軍に立ち向かった青野ヶ原合戦など、いずれも天下を二分する戦いであった。

 近世に入り徳川氏は美濃を重視し、親藩尾張領のほか大垣、加納(かのう)、郡上(ぐじょう)(八幡(はちまん))、岩村、苗木(なえぎ)、高富、高須の7藩と70余の旗本に分治させ、その間に幕領を配置した。1616年(元和2)「美濃国村高領知改帳」によれば総高58万9396石余、村数1042であった。南西部地域は水害が多く、輪中(わじゅう)が形成されていったが、1755年(宝暦5)幕命によって薩摩(さつま)藩が行った宝暦治水(ほうれきちすい)工事(木曽・長良・揖斐川)は、80余人の犠牲と270万両の出費によって竣工(しゅんこう)した。明治維新には今尾と野村(大垣新田)を藩列に加え、9藩をそれぞれ県とし、旧幕領と旧旗本領とをあわせた笠松(かさまつ)県を含めて10県となったが、1871年(明治4)まとめて岐阜県となった。76年岐阜県は飛騨を編入し、ほぼ現在の県域となった。

[村瀬円良]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「美濃国」の意味・わかりやすい解説

美濃国
みののくに

現在の岐阜県南部。東山道の一国。上国。『古事記』には三野国,『正倉院文書』には御野国とある。もと牟義都,三野前,三野後,本巣の国造および鴨,方の県主があったという。壬申の乱 (672) に際しては大海人皇子 (のちの天武天皇) の領地があった関係から村国連らは吉野側として活躍したが,彼らは各務 (かかみ) 郡を根拠とする豪族であった。大宝2 (702) 年の戸籍が正倉院に蔵されており,古代史研究には貴重な史料。国府は不破郡垂井町府中。国分寺は大垣市青野町。『延喜式』には多芸 (たき) ,石津,不破,安八など 18郡があり,『和名抄』には郷 131,田1万 4823町を載せている。平安時代後期には源経基の子孫が勢力をもち,美濃源氏を称した。鎌倉時代には守護として大内惟義,北条氏一門が任じられたが,のちには土岐郡に美濃源氏の流れをくむ土岐氏が勃興。土岐氏は足利尊氏に従って功を立て,室町時代には守護となった。天文 11 (1542) 年に土岐頼芸は家臣の斎藤秀龍 (道三) に追われて滅び,斎藤氏が守護を称した。織田信長は清洲から岐阜に移り当国は信長の支配下におかれた。江戸時代には徳川家康は大久保長安を美濃国代官に任命,藩には高須に松平氏,大垣に戸田氏,岩村に松平氏などを配した。明治4 (1871) 年の廃藩置県後,各藩は県となり,同年 11月に岐阜県に統合された。

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藩名・旧国名がわかる事典 「美濃国」の解説

みののくに【美濃国】

現在の岐阜県南部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東山道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府は現在の不破(ふわ)郡垂井(たるい)町府中(ふちゅう)、国分寺は大垣(おおがき)市青野(あおの)町におかれていた。東山道の要衝で、三関(さんかん)の一つである不破関(ふわのせき)がおかれた。平安時代中期に源経基(みなもとのつねもと)の子孫が土着して美濃源氏となり、中世にはその流れの土岐(とき)氏が勢力をもった。戦国時代に入ると、土岐氏は家臣の斎藤道三(さいとうどうさん)に、斎藤氏は織田信長(おだのぶなが)に滅ぼされ、信長がこの地を支配した。江戸時代には大垣藩などの小藩、幕府直轄領、旗本領などがあった。1871年(明治4)の廃藩置県により岐阜県となった。◇濃州(のうしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「美濃国」の意味・わかりやすい解説

美濃国【みののくに】

旧国名。濃州とも。東山道の一国。現在の岐阜県南部。東山道の要衝として不破関を置く。《延喜式》に上国,18郡。国府は不破郡垂井(たるい)町付近。中世の守護は大内・北条氏らののち土岐氏が世襲。末期に斎藤氏,次いで織田信長が岐阜城を本拠とした。近世は尾張藩領のほか戸田氏の大垣藩など小藩が分立。
→関連項目茜部荘大井荘岐阜[県]中部地方

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「美濃国」の解説

美濃国
みののくに

東山道の国。現在の岐阜県南部。「延喜式」の等級は上国。「和名抄」では多芸(たき)・石津・安八(あはちま)・不破(ふわ)・池田・大野・本巣・席田(むしろだ)・方県(かたがた)・厚見・各務(かがみ)・山県(やまがた)・武芸(むげ)・郡上(ぐじょう)・賀茂・可児(かに)・土岐(とき)・恵奈(えな)の18郡からなる。国府は不破郡(現,垂井町),国分寺も不破郡(現,大垣市),国分尼寺も不破郡(現,垂井町)におかれた。一宮は南宮神社(現,垂井町)。「和名抄」所載田数は1万4823町余。「延喜式」では調として布帛のほか甕・壺など多くの焼物があり,中男作物として紙・漆など。国名表記は7世紀には三野,大宝律令施行頃から御野,和銅初年から美濃とされた。令制三関の一つ不破関を管理する関国で,789年(延暦8)に三関が廃止されるまでは大国であったと推定される。平安後期には美濃源氏が勢力を張った。南北朝期以降,美濃源氏の土岐氏が守護となる。江戸時代は多くの藩が成立・消滅し,旗本領もほぼ70家あり,幕領も存在した。1868年(明治元)幕領は笠松県となる。71年の廃藩置県の後,岐阜県に統合された。

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世界大百科事典(旧版)内の美濃国の言及

【尾張国】より

…《掌中歴》には,尾張国の田積1万1940町とあるが,8世紀の中ごろには木曾川の大洪水による多大の被害があったことが記録されている。木曾川の河道問題は,美濃国の利害とも密接に関連していたから,両者の対立も時には深刻であった。9世紀の中ごろには,美濃国の郡司たちが,700人の武装農民をひきいて尾張側の工事現場を襲撃し,尾張側に死傷者が出たという事件も起こっている。…

※「美濃国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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