朝日日本歴史人物事典 「吉田宗恂」の解説
吉田宗恂
生年:永禄1(1558)
安土桃山時代の医者。宗桂の次男で医業を継ぎ,兄の角倉了以 は土倉業を継いだ。初名は光政,孫次郎,号は又玄子。はじめ豊臣秀次に仕え,後陽成天皇の病気に献薬して奏効し,襲称していた意庵を勅によって意安と改め,法印に叙せられた。のち徳川家康に召され,隔年東下して家康の好んだ本草研究にも協力した。博識の人として知られ,南蛮船によって珊瑚枝がもたらされたときも,侍医のうち宗恂だけが名称,産地,採取法を答え,これを称賛した家康がその1枝を与えたと伝えられる。また家康の命で紫雪(鉱物多味配合薬)を作り,諸侍医もこれにならった。京都で没し,嵯峨二尊院に葬られた。<著作>『歴代名医伝略』『本草序例抄』<参考文献>京都府医師会編『京都の医学史』
(宗田一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報