吉田宗桂(読み)よしだそうけい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田宗桂」の意味・わかりやすい解説

吉田宗桂
よしだそうけい
(1512―1572)

室町時代の医家。角倉了以(すみのくらりょうい)の実父祖先近江(おうみ)国(滋賀県)吉田庄(しょう)を領したので吉田を家号とし、徳春(とくしゅん)(1384―1468)の代に角倉を家号とする庶流が出た。1539年(天文8)天竜寺長老策彦周良(さくげんしゅうりょう)に随行して明(みん)に渡り、1547年再度渡明のとき、明帝世宗の病を療して名声を博し、明人は、医は意なりの義から意安と称し、この称は子孫代々襲称した。本草(ほんぞう)に通じ、よく薬性を弁じたので世人は宋(そう)の本草家陳日華に擬して日華子と号した。帰国後、宮内卿(きょう)法印となり、門人も多く名医の誉れが高かった。

[宗田 一]

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朝日日本歴史人物事典 「吉田宗桂」の解説

吉田宗桂

没年:元亀3.10.20(1572.11.25)
生年永正9(1512)
室町後期の医者。宇多源氏佐々木氏を祖とし,近江国(滋賀県)の領地名にちなみ代々吉田と称す。医を業とした吉田家は2代目から土倉業も営み,以後は長男が土倉業(家号は角倉),次男が医業を継ぐ。宗桂は3代目の宗忠の次男で,京都の嵯峨天竜寺前通に住み,室町幕府12代将軍足利義晴の侍医を勤めた。薬能に詳しく,中国の『日華子諸家本草』の著者に擬して日華子と呼ばれる。天文8(1539)年,同16年に明に渡り,明の皇帝世宗に献薬して賞され,当地で意庵(医は意なりの意味)と呼ばれたことからこれを通称とした。帰国後,法印に叙せられた。長男の角倉了以が土倉業を,次男の宗恂が医業を継いだ。<参考文献>京都府医師会編『京都の医学史

(宗田一)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉田宗桂」の意味・わかりやすい解説

吉田宗桂
よしだそうけい

[生]永正7(1500).京都
[没]元亀3(1572).10.20.
室町時代末期の医家。代々足利将軍の御典医で,本草学もよくした。名は意安,号は日華子。天文8 (1539) 年に使僧策彦に従って明に渡り,2年間医学を学んで帰国,同 16年再び渡明,明帝世宗の病気をなおし,日本名医の神術とたたえられた。帝は恩賞として顔輝画の扁鵲像,花梨の薬笥などを贈り,その盛名は明国全土にひびいた。同 19年,医書を持って帰国,弟子多く,子孫は意安を号とした。角倉了以は宗桂の第2子。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉田宗桂」の解説

吉田宗桂 よしだ-そうけい

1512-1572 戦国-織豊時代の医師。
永正(えいしょう)9年生まれ。代々京都の医家。将軍足利義晴の侍医をつとめた。天文(てんぶん)8年,16年の2度明(みん)(中国)にわたり,医術をおさめ,明の皇帝世宗の病をなおし名をたかめた。帰国後,法印。海外貿易にも従事し,家業のうち商売は長男角倉了以(すみのくら-りょうい)が,医業は次男宗恂(そうじゅん)がついだ。元亀(げんき)3年10月20日死去。61歳。通称は意庵。号は日華子。

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