安土桃山時代の武将。父は豊臣秀吉の近臣三好吉房,母は秀吉の実姉日秀。1585年(天正13)秀吉から近江で自分遣(つかい)20万石,宿老の当知行分23万石,計43万石を宛行われ,八幡山に築城した。この間,秀吉に従って各地に転戦し,90年後北条氏滅亡ののち尾張一国と北伊勢5郡を与えられ清須城に入った。さらに奥州に出陣し,検地や九戸(くのへ)政実の乱の平定にあたった。秀吉の実子鶴松の死により91年末に関白となり,聚楽第で政務をとった。秀吉は太閤として朝鮮出兵に専念するが,秀次も渡海準備の指示をうけ,3万4000人余の家中で独自の軍事編成を行い,軍法も定めているが出動には至らなかった。92年3月ごろ,人掃令(ひとばらいれい)を発布して全国の家数人数の調査を行い,京,大坂より肥前名護屋までの継馬継飛脚の制を定めている。93年(文禄2)秀吉に実子秀頼が生まれたことにより秀吉との関係は徐々に悪くなり,秀次自身の性格上の問題もこれに拍車をかけた。このころ秀吉は尾張領に対する政治的監察を行っているが,それは秀次の蔵入地(くらいりち)にまで立ち入り,先年の検地の際の石高との増減を厳しくチェックしたうえ,検見(けみ)によって実際の収穫高を調査するという徹底したものであった。また荒蕪地(こうぶち)の開発には全国から陰陽師を集め,百姓を大量に築堤工事に動員する一方,給人(きゆうにん)に対しては軍役を半減する代りに3ヵ年は秀吉みずからが代官になることを令している。これは秀次の個別領主権を著しく侵害するものであった。95年7月,ついに謀反を企てたという理由で関白・左大臣の職を解かれ,わずかの従者とともに高野山に追いやられて切腹を命じられた。子女,妻妾ら30余名も京都の三条河原で処刑され,木村常陸介など近臣の多くは粛清された。このような暴力的処断は,朝鮮出兵の間に起こった武将間の対立をさらに深刻化し,豊臣政権の崩壊を早める結果となった。
執筆者:三鬼 清一郎
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安土(あづち)桃山時代の武将。豊臣秀吉の甥(おい)。通称孫七郎。三好一路(いちろ)の子、母は秀吉の姉瑞竜院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)。1583年(天正11)伊勢(いせ)攻略・賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで戦功をたてたが、翌年の長久手(ながくて)の戦いでは徳川家康の軍に大敗し、秀吉から厳しく叱責(しっせき)された。85年、紀州征伐、四国征伐の活躍により羽柴(はしば)氏を称することを許され、近江(おうみ)で43万石を与えられ八幡(はちまん)に居城を築く。87年島津征伐に出陣、90年の小田原の陣では主将となり相模(さがみ)山中城を攻め、ついで陸奥(むつ)に入って九戸(くのへ)の乱を鎮定。論功行賞により織田信雄(おだのぶかつ)の旧領尾張(おわり)・北伊勢、つごう100万石を与えられ清洲(きよす)に居城を移した。85年秀吉が関白となったとき、秀次も右近衛(うこのえ)中将となり、翌年参議、翌々年には権中納言(ごんちゅうなごん)となり、秀吉の後継者と目され官位も急速に昇進した。秀吉の愛児鶴丸が夭死(ようし)した3か月後の91年11月には秀吉の養嗣子(ようしし)となり、翌月4日内大臣、同28日には関白となり、聚楽第(じゅらくだい)を譲られた。翌年2月、聚楽第に後陽成(ごようぜい)天皇の行幸を仰ぎ一代の盛儀を極めた。
1593年(文禄2)8月、秀吉が愛妾(あいしょう)淀殿(よどどの)所生の次男秀頼(ひでより)を得てから、継嗣問題をめぐる思惑から疎遠をきたし、粗暴で不謹慎な性行も目だつようになり、秀次謀反の噂(うわさ)が取りざたされるに至った。95年7月、秀次より野心のない旨の誓紙が出されたが、秀吉は秀次の行動や世間の噂を利用し、関白職を奪って高野山(こうやさん)に追放して切腹させ、8月その一族を京都三条河原で斬殺(ざんさつ)した。秀次は勇を好むとともに、学問・文芸を好み、これを奨励した点は文芸史上特筆される。
[橋本政宣]
(二木謙一)
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1568~95.7.15
織豊期の武将。父は豊臣秀吉の近臣三好吉房,母は秀吉の姉瑞竜院日秀。三好康長の養子となる。1584年(天正12)小牧・長久手の戦で有力武将を失うなどの失態から叱責をうけるが,翌年の紀州・四国攻めの功により,近江などで43万石を与えられる。90年の小田原攻め従軍後は,織田信雄改易後の尾張・北伊勢を領し清須(きよす)城に入る。91年秀吉の子鶴松が夭折したため,関白職を譲られ聚楽第に住した。朝鮮出兵時には,それに専心する秀吉にかわり,人掃令の発令など国内統治にあたった。しかし93年(文禄2)秀頼が生まれて秀吉と不和になり,謀反を疑われ高野山に追放のうえ切腹。妻子・側室も京都三条河原で処刑された。
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…旧国名。尾州。現在の愛知県の西半部にあたる。
【古代】
東海道に属する上国(《延喜式》)。面積の約6割が濃尾平野の南半部にあたる肥沃な沖積平野で,古墳の分布などから推察すれば,北部の犬山市や一宮市,北東部の春日井市あたりにも豪族の拠点があったと考えられる。しかし国全体を統轄する地位を確保したのは,平野南部の熱田台地に本拠をおく尾張国造たる尾張氏であろう。尾張氏は,ヤマトタケル伝説を媒介として,皇室とのつながりを誇示する豪族であった。…
…豊臣秀次の右筆駒井中務少輔重勝の日記。《駒井中書日次記》《文禄日記》ともいう。…
…仮名草子。作者不明。寛永年間(1624‐44)の刊行。3巻。古活字版と整版とがある。1595年(文禄4)の豊臣秀吉の甥秀次の謀反事件をあつかった小説で,秀吉の九州への発向から,秀次の悪逆,高野山への追放,秀次の自殺,その寵愛の女30余人の最期を叙している。聚楽は聚楽第のことで,秀次は秀吉から関白職を譲られてここに住んだので言う。秀次事件は《恨の介》にも出てくる。【野田 寿雄】…
…安土桃山時代の武将。天文6年出生説もある。織田信秀に仕えた足軽木下弥右衛門を父として尾張中村に生まれた。はじめ木下藤吉郎を名のる。
[天下統一まで]
秀吉は遠江の松下之綱(ゆきつな)に仕えたのち織田信長の家臣となり,戦功と才覚によって頭角をあらわした。1573年浅井氏の滅亡後に近江を与えられ,長浜に居城して領域的支配をつよめた。このころ筑前守に任ぜられ羽柴姓を称し,奉行人としての地歩を固めた。77年の中国征伐には明智光秀とともに先鋒をつとめ,播磨三木城の別所長治を討ち,81年には吉川(きつかわ)経家が守備する因幡鳥取城を陥落させ,翌年備中高松城を包囲し毛利氏との決戦を目前にしていた。…
※「豊臣秀次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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