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角倉了以 すみのくらりょうい

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

角倉了以
すみのくらりょうい

[生]天文23(1554).京都
[没]慶長19(1614).7.12. 京都
安土桃山時代の海外貿易家,土木事業家。幼名は与七,のち了以。諱は光好。京都嵯峨の土倉吉田家の出。文禄1 (1592) 年豊臣秀吉から,慶長9 (1604) 年以降は徳川氏から朱印状を与えられ安南トンキン (東京) に朱印船 (角倉船と呼ばれた) を派遣し巨利を得た。また治水事業,河川開発の技術にも長じ,同 11年の大堰川 (丹波-山城) の浚渫,疎通をはじめとして,富士川 (駿河岩淵-甲府) ,天竜川 (遠江掛塚-信濃諏訪) ,高瀬川 (京都二条-伏見) などの開削を行い,これらの河川を利用して材木その他の物質を搬出し資産をなした。

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デジタル大辞泉の解説

すみのくら‐りょうい〔‐レウイ〕【角倉了以】

[1554~1614]安土桃山から江戸初期の豪商。京都の人。名は光好。豊臣秀吉徳川家康朱印状を得て、安南・東京(トンキン)方面との貿易で巨利を得た。また、大堰(おおい)川・富士川・天竜川・高瀬川などの水路の開発に尽力

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百科事典マイペディアの解説

角倉了以【すみのくらりょうい】

安土桃山時代から江戸初期にかけての京都の豪商,海外貿易家。本姓吉田,名は光好(みつよし)。1592年豊臣秀吉から朱印状を得て角倉船と称する400人乗りの朱印船アンナン(安南)に派遣し貿易を行った。
→関連項目伊藤仁斎豪商

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

角倉了以 すみのくら-りょうい

1554-1614 織豊-江戸時代前期の豪商。
天文(てんぶん)23年生まれ。吉田宗桂(そうけい)の長男。京都嵯峨(さが)で医業と土倉(どそう)(金融業)をいとなんだ角倉一族のひとり。慶長8年より安南(ベトナム)との朱印船貿易に従事。国内では大堰(おおい)川,富士川などを疎通させ,高瀬川を開削した。慶長19年7月12日死去。61歳。名は光好。通称は与七。
【格言など】凡(およ)そ百川皆以舟を通ずべし(信条)

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朝日日本歴史人物事典の解説

角倉了以

没年:慶長19.7.12(1614.8.17)
生年:天文23(1554)
近世初頭の京都の豪商,河川開墾土木工事の大家,朱印船貿易家。吉田宗桂と中村氏の娘の長男。本姓吉田,名を与七,諱は光好。先祖は室町幕府に医者として仕えた。また嵯峨の土倉として金融業を営み,屋号を角倉と称した。父宗桂も医者として名高く,勘合貿易に従事し,薬種類の購入など行った。了以は豊臣秀吉政権下では家業に協力していたが,のち医者は次弟の宗恂にやらせ,慶長5(1600)年ごろより時代をみて徳川家康に近づいた。豪放闊達な人物で,同8年ごろより安南国東京(インドシナ半島)との朱印船貿易に従事し,長男与一(素庵)らの協力を得て毎年のように実施し,日本を代表する使節でもあった。同14年の帰途海難にあい,犠牲者を出してから,貿易は与一に譲っている。 了以は父の科学者的素質を受け,数学や地理に明るく,土木工事の技術に進んだ力量を持っていた。同9年丹波から京都に米穀や材木などを人馬で運送している労力をみて,大堰川の開疏を行い,高瀬船による河川交通によって,物資の流通を自由にすることを考え,幕府の許可を得て同10年,同11年に開削工事を自ら陣頭に立って完遂し,その河川運航料や倉庫料の徴収が特許され,これが角倉の収入となった。次いで幕府は同11年了以に富士川の疏通を命じ,翌年工事が達成された。同12年天竜川の開疏を命じられているが,これは難工事で成功していない。同16年,京都二条から伏見に至る運河を計画,淀川に接続させる高瀬川の開鑿を,自費で困難な条件を克服して完成し,京都の町に木材,食糧,薪炭などの物資が運送された。幕府は高瀬川の通航料を徴収し,幕府と角倉の収益とし,角倉は代々淀川の河川交通や高瀬川を支配した。高瀬川の完成直後に病没。墓地は嵯峨二尊院。<参考文献>「角倉文書」(『大日本史料』12編14所収),「角倉文書」(京都角倉吾郎氏蔵),「角倉文書」(高輪美術館蔵),林屋辰三郎『角倉了以とその子』,中田易直「近世初頭の大事業家角倉了以」(『金融ジャーナル』1974年8月号)

(中田易直)

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世界大百科事典 第2版の解説

すみのくらりょうい【角倉了以】

1554‐1614(天文23‐慶長19)
安土桃山時代の海外貿易商で,河川開発家。近江国愛知郡吉田郷を出自とし,吉田が本姓。祖父宗忠が洛西嵯峨で土倉営業に成功し,屋号を角倉と称する豪商となった。了以の父宗桂は,吉田家の家業であった医術にすぐれ,策彦(さくげん)周良に従って明(中国)に渡り名声を高めた。了以は宗桂の長子で,通称与七,諱(いみな)は光好,了以は法号である。性格は豪放不羇(ふき)で海外雄飛を志し,また土木建設にも興味をもった。1592年(文禄1),豊臣秀吉から朱印状を得て安南国に角倉船を派遣したとも伝え,弟宗恂や息子角倉素庵の協力を得て,1603年(慶長8)以降海外貿易に従事したのは明らかである。

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大辞林 第三版の解説

すみのくらりょうい【角倉了以】

1554~1614) 安土桃山時代から江戸初期の豪商。京都の生まれ。豊臣秀吉に朱印状を得て安南・東京トンキンとの貿易に従事。また、国内諸河川の開発も積極的に行なった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

角倉了以
すみのくらりょうい
(1554―1614)

安土(あづち)桃山時代の貿易家、土木事業家。本姓は吉田氏、幼名与七、名は光好。吉田氏は近江(おうみ)佐々木氏の流といい、了以は角倉家5代とされる。角倉家は応永(おうえい)(1394~1428)のころ現れた徳春(とくしゅん)を初代とし、徳春およびその子宗臨(そうりん)はともに医術に長じた。了以の祖父宗忠(そうちゅう)は、1544年(天文13)亀屋五位女(かめやごいめ)から洛中帯座座頭職(らくちゅうおびざざとうしき)ならびに公用代官職を獲得し、またこのころ嵯峨(さが)大覚寺境内に土倉(どそう)(高利貸)業を始め、嵯峨角倉は豪商としても著名になった。了以の父宗桂(そうけい)(意庵(いあん))は遣明(けんみん)使節策彦周良(さくげんしゅうりょう)に従って入明(にゅうみん)し、医者としても高名であった。しかし了以は医業を継がず、算数・地理を学び、当時勃興(ぼっこう)してきた海外通商および国内の建設諸事業に進出した。すなわち、徳川家康の知遇を得て1603年(慶長8)以後10年まで数回にわたり異国渡海の朱印状の交付を受け、安南(アンナン)・東京(トンキン)地方に貿易船を派遣し、それ以後は子の玄之(はるゆき)(素庵(そあん))が貿易事業を継承した。土木事業では、05年に丹波(たんば)・山城(やましろ)を結ぶ大堰(おおい)川の疎通を計画、翌年これを完成したほか、幕命により富士川、天竜川の疎通を行い、京都では高瀬川を開削(かいさく)した。この結果、角倉家はこれら河川の通船支配権を獲得し、また搬出材木によって上方(かみがた)の有力材木商となるなど多大の経済的利益も得た。晩年、琵琶(びわ)湖の疎水計画をたて、勢多(せた)―宇治間の舟行と琵琶湖水位の低下による新田開発を図ったが実現には至らなかったという。[村井益男]
『林屋辰三郎著『角倉了以とその子』(1944・星野書店)』

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世界大百科事典内の角倉了以の言及

【大堰川】より

…織豊期になると材木の需要が急増し,豊臣秀吉は1588年(天正16)宇津,保津,山本などの筏士に朱印状を与えてこれを保護した。一方開削工事も積極的に行われ,山国郷では97年(慶長2)から2回にわたって大工事を施し,角倉了以は1606年保津峡の開削を完成した。筏問屋は1597年保津村に14軒,山本村に3軒存在し,同じころ嵯峨,梅津,桂の材木屋は三問屋仲間を結成した。…

【賀茂川∥鴨川】より

…1591年(天正19)豊臣秀吉は御土居の築造に当たり,その東端を鴨川西岸とし,古代・中世以来の洪水の防止をはかった。1610年(慶長15)には,方広寺大仏殿造営の材木運搬のため角倉了以が鴨川の開削(水路化)に着手した。洛東と伏見(淀・鳥羽一帯)の高低差約6尺を土木工事によって水平化することに成功,〈淀・鳥羽之船直に三条橋下に至る〉ようになり(《(駿府記》),物資の輸送が格段に円滑化された。…

【嵯峨人形】より

…多くは10~15cm程度の大きさで,江戸中期から登場した。一説には,貿易商角倉了以(すみのくらりようい)が晩年京の西郊嵯峨に隠棲してこの種の人形を愛好し,製作を奨励したことから名付けられたともいう。やがてこの技法は江戸にも伝わり,京都製とは別に〈江戸嵯峨〉の名が生まれ,また厚味のあるその彩色法から〈置上げ人形〉とも呼ばれた。…

【商人】より

…軍需物資の調達・輸送,金融,城下町整備などで活躍し,ときには代官的な役割を果たした。大堰川,富士川,高瀬川などを開削して米や物資の輸送を可能にし,通船料取得の特権をえた角倉了以や,大坂の道頓堀川を開削して水上交通と市街の発達に寄与した安井道頓,中之島を開発して市場を開いた淀屋个庵(こあん)などが著名である。彼らは幕藩権力と結びつき,政商的性格をもっていた。…

【高瀬川】より

…近世初期,角倉(すみのくら)了以によって開削された運河で,京都市中と大坂,伏見との物資輸送に利用された。1611年(慶長16)起工,14年完成。…

※「角倉了以」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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