朝日日本歴史人物事典 「吉田経長」の解説
吉田経長
生年:延応1(1239)
鎌倉後期の公卿。権中納言為経の3男。母は権中納言二条定高の娘。権中納言葉室定嗣の娘,異母弟の権中納言冷泉経頼の娘を妻とする。寛元2(1244)年叙爵。弘長1(1261)年に中宮権大進。翌年,同母兄経藤と異母兄経任とが官位昇進をめぐって争い,敗れた経藤が出家する。このためか,経長は終生経任に対し,強烈な対抗意識を持っていたようだ。文永3(1266)年五位蔵人,7年左少弁。累進して11年右大弁,翌年には蔵人頭,左大弁。建治3(1277)年に参議となり公卿に列する。弘安2(1279)年ごろには亀山上皇の伝奏,評定衆を務めていたらしい。同6年に権中納言。正応1(1288)年に中納言となるが,1カ月で官を辞す。同年皇統は持明院統に移っており,大覚寺統の亀山上皇に忠節を尽くす意味での辞官であった。正安3(1301)年,亀山上皇の孫の後二条天皇が即位すると中納言に復帰。翌々年,念願の権大納言となったのちに出家。日記『吉続記』がある。
(本郷和人)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報