改訂新版 世界大百科事典 「寛喜の飢饉」の意味・わかりやすい解説
寛喜の飢饉 (かんぎのききん)
鎌倉時代,1230年(寛喜2)以後数年間続いた全国的飢饉。数年前から気象の変異や小さな飢饉が起きていたが,この年夏の極端な寒冷気象(陽暦7月末から8月初めに美濃,信濃,武蔵で降雪)による秋の全国的大凶作が発端となった。冬は逆に異常な暖冬となったため麦が徒長し翌年4月の収穫期に凶作となり,そのため31年1~3月の端境期に餓死者が続出し,麦秋(陰暦4月ごろ)後7月ごろまで大惨状が展開した。この年の秋,東国は豊作となるが,西国は干ばつのため凶作となり,32年(4月に攘災招福を願い貞永と改元)初夏の麦も植えつけ不足で収穫減少し,秋も8月8日の台風のため凶作にみまわれ,社会的生産力は弱められ回復は遅れていった。飢饉状況下,餓死に瀕した人々の中から富家に養われたり,妻子や自身を売却・質入れする者が続出し,この富家にとりこまれた人々の身柄をめぐってその後紛争が生じ,それは1250年代半ばまで続く。これに対し朝廷は売買の有効性を認めない態度をとっていたが,幕府は1239年(延応1)になって飢饉の際の人身売買・質入れは有効であるが,平常に復してから以後(これを1239年5月以後とした)は禁止するという法的立場を打ち出し,紛争解決,秩序維持に乗り出した。その結果,奴隷身分に固定される者,即座に解放される者,将来の解放が約束される者等を区別する基準が示されることになり,その後の中世社会に影響を与えていくことになる。《御成敗式目》はこの飢饉のさ中1232年(貞永1)に成立しているが,これは飢饉により諸矛盾が激化し,紛争の頻発,秩序崩壊の危機に際して,鎌倉幕府がその解決のための基準を打ち出したものとみることができる。また親鸞がその宗教的特質である絶対他力の立場に回心したのも,この飢饉のさ中である。
執筆者:磯貝 富士男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報