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吉田長淑 よしだ ちょうしゅく

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

吉田長淑 よしだ-ちょうしゅく

1779-1824 江戸時代後期の医師。
安永8年生まれ。土岐(とき)長元に漢方を,桂川甫周(ほしゅう)に蘭学をまなぶ。蘭方内科をとなえて江戸で開業。のち金沢藩の江戸住み医師となる。弟子に高野長英,小関三英らがいる。文政7年8月10日死去。46歳。江戸出身。本姓は馬場。名は成徳。字(あざな)は直心。通称は別に佐侯。号は駒谷,蘭馨堂。訳書に「泰西熱病論」「蘭薬鏡原」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

吉田長淑

没年:文政7.8.10(1824.9.2)
生年:安永8(1779)
江戸後期の蘭方医。名は成徳,字は直心。駒谷と号す。書斎号を蘭馨堂。長淑は通称で,佐侯とも称す。幕府の御先手組同心馬場兵右衛門の子として江戸に生まれたが,母方の祖父吉田長粛 の養子となり医者を志す。幕府医官土岐長元に学んだのち,桂川甫周(国瑞)について蘭方医学を学ぶ。また,蘭方医宇田川玄真の義弟として内弟子以上の待遇で懇切な指導を受けた。寛政10(1798)年,20歳のときに「蘭学者相撲見立番付」で東前頭3枚目という上位から11番目の地位を占めているように,若くして蘭学者としての頭角を表す。一時大野氏また倉持氏の養子となるが吉田に復す。文化7(1810)年,宇田川玄真の推挙により藤井方亭と共に加賀藩の江戸住医師となる。 当時の蘭方医学はもっぱら外科が中心であったが,長淑は蘭方内科を専門とした。享和年間(1801~04)には江戸日本橋にわが国で初めて蘭方内科を標榜した医院を開業した。翻訳書にはレメリーの薬物辞典の翻訳『和蘭薬撰』3巻,その増補『遠西楽圃綱目』17巻,『蘭薬鏡原』50巻(草部3巻のみ1820年刊),ブカンの『蒲剛製剤篇』,ハックサムの内科書『泰西熱病論』6巻付録1巻(1814)がある。蘭馨堂門下には高野長英(長英の名は長淑から与えられたもの),足立長雋,湊長安,吉田正恭をはじめ百数十人の名が知られる。<参考文献>平野満「蘭方医・吉田長淑年譜考」(『明治大学大学院紀要』15集),同「古方から蘭方へ」(『駿台史学』45号)

(平野満)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の吉田長淑の言及

【足立長雋】より

…名は世茂,無涯と号した。多紀安長に漢方を,吉田長淑に蘭方医学を学び,丹波篠山藩侍医となった。師の吉田長淑の西洋内科に対し西洋産科を標榜し,最初の蘭方産科医として多くの後進を育成した。…

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