吉良満貞(読み)きらみつさだ

改訂新版 世界大百科事典 「吉良満貞」の意味・わかりやすい解説

吉良満貞 (きらみつさだ)
生没年:?-1384(元中1・至徳1)

南北朝時代の武将通称上総三郎,官途治部大輔,左兵衛佐。入道して省堅と号す。満義の子。三河国吉良荘などの地頭観応擾乱(じようらん)に当たり足利直義方となり,さらに南朝に降り,石塔頼房,山名時氏らとともに京都を襲った。やがて幕府に復帰し1363年(正平18・貞治2)引付頭人となる。しかし弟尊義(または義尊)の吉良荘東条押領が伝えられるなど,彼の代には吉良氏嫡流の勢力低下が兆した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「吉良満貞」の解説

吉良満貞

没年:至徳1/元中1.9.5(1384.9.20)
生年:生年不詳
南北朝時代の武将。満義の子。上総三郎と号す。治部大夫,左兵衛佐。足利直義の吏僚として行動してきた満貞は,観応の擾乱の勃発とともに直義党として活動するようになる。観応2/正平6(1351)年1月,満貞は桃井直常に呼応して斯波高経らと共に軍勢を率いて入京し,直義派の勝利に貢献する。いったんは幕府の実権を握った直義であったが,同年7月末には直義は政務を辞して,北陸に落ちていき,満貞も彼に従った。翌年2月,鎌倉において尊氏と直義は激突したが,その和平交渉の最中に,直義が毒殺されると,満貞は南朝に属し,西上した。その後楠木正儀らと共にしばしば京都を攻めている。その後,幕府に帰順し,貞治2/正平18年には引付方の頭人に列している。満貞は守護には任ぜられなかった。満貞以後吉良氏は勢力を失い,三河国内の小勢力にすぎなくなる。

(伊藤喜良)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉良満貞」の解説

吉良満貞 きら-みつさだ

?-1384 南北朝時代の武将。
吉良満義(みつよし)の子。左兵衛佐(さひょうえのすけ),治部大輔(たいふ)。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では父とともに足利直義(ただよし)にしたがう。ついで南朝に帰順,のち幕府に復帰し,引付頭人に起用された。この時代に弟の尊義が独立し,三河(愛知県)吉良氏は満貞の西条吉良,尊義の東条吉良の2流にわかれた。至徳元=元中元年9月5日死去。通称は上総三郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android