吉良氏(読み)きらうじ

改訂新版 世界大百科事典 「吉良氏」の意味・わかりやすい解説

吉良氏 (きらうじ)

(1)清和源氏。足利氏庶流。三河国吉良荘より起こり,3流に分かれる。(a)嫡流西条吉良氏。鎌倉中期,足利義氏の長子長氏が吉良荘を譲られ吉良氏を称する。長氏の孫吉良貞義は足利尊氏の六波羅探題討滅をたすけ,貞義の子満義以来室町幕府の引付頭人を世襲。義郷にいたり織田信秀と結んで今川義元に抗したが1536年(天文5)敗死。弟義昭は徳川家康に下ったが,63年(永禄6)三河一向一揆に推されて家康に背き,近江に走り,のち摂津で戦死した。(b)東条吉良氏。満義の子尊義(または義尊)以来,吉良荘内東条郷を本拠として代々嫡流の西条吉良氏と争った。戦国末期西条吉良義郷の弟義安が東条吉良持広の養子となり,争いが止む。西条吉良義昭の出奔後,家康は義安に東条・西条を併有させた。その子孫は高家(こうけ)に列し吉良荘内3000石を知行吉良義央(よしなか)が浅野長矩の刃傷事件の結果1702年(元禄15)浅野の浪士に殺され,家が断絶分家旗本東条氏に吉良の本姓が許された。(c)奥州吉良(世田谷吉良)氏。長氏の甥経氏より起こる。経氏の孫吉良貞家は室町幕府の引付頭人などを経て1345年(興国6・貞和1)奥州両管領の一方となり,観応の擾乱(じようらん)に当たり一方の管領畠山国氏を倒した。しかしその後,新たに奥州管領となった斯波氏に圧迫された吉良氏は,武蔵に移り,世田谷および蒔田を領した。頼康にいたり北条氏綱の娘を妻としたが,その養子氏朝は徳川家康に下り,旗本となった。

(2)土佐国吾川郡弘岡城(吉良峰城)に拠った豪族で,平氏を称した。源希義(まれよし)の後裔とする説や,吉良宣経が南村梅軒を招き儒学をおこしたとする説は,いずれも信じがたい。1540年(天文9)に近いころ本山氏に滅ぼされた。長宗我部元親は63年(永禄6)本山氏を追い,弟親貞に吉良氏を称させた。親貞の子親実は高岡郡蓮池城に移ったが,88年(天正16)元親は権臣久武内蔵助の讒言を信じて親実を自刃させた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉良氏」の意味・わかりやすい解説

吉良氏
きらうじ

鎌倉時代に成立した武士団。清和源氏(せいわげんじ)足利義氏(あしかがよしうじ)の長子長氏(ながうじ)が、三河国(みかわのくに)吉良庄(きらのしょう)(愛知県西尾市吉良町地区)地頭職(じとうしき)を名字(みょうじ)の地として独立。その出自から、代々の惣領(そうりょう)は足利一族中の名門の地位を占め、越前(えちぜん)(福井県)、三河守護職にも就任。室町幕府成立後、惣領の満義(みつよし)、庶子の貞家(さだいえ)はともに引付頭人(ひきつけとうにん)の要職につき、貞家は奥州管領(かんれい)にも抜擢(ばってき)された。しかし足利直義(ただよし)派に属して観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(1351)以後に衰退。室町中期には、貞家の子孫は武蔵国(むさしのくに)世田谷(せたがや)(東京都)に拠(よ)って関東府に仕えた。また本領吉良庄で西条・東条両家に分かれた惣領系の三河吉良氏も、将軍家相伴衆(しょうばんしゅう)として地歩を保った。戦国末期に西条吉良氏は三河一向一揆(いっこういっき)に加担して断絶。東条吉良氏は徳川家臣となり、のち幕府の高家(こうけ)となった。吉良上野介義央(こうずけのすけよしなか/よしひさ)はその子孫である。

[遠藤 巌]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉良氏」の意味・わかりやすい解説

吉良氏
きらうじ

清和源氏。 (1) 三河吉良氏 足利氏の庶流。鎌倉時代初期,足利義兼の3男義氏が給与された三河国吉良荘に,義氏の嫡子長氏が住み,吉良と呼ばれた。室町時代には足利一門として栄えた。のち高家 (こうけ) として,江戸幕府に仕えたが,義央 (よしなか) が赤穂浪士に殺されたため,いったん家名は断絶,のち再興した。 (2) 陸奥吉良氏 義氏の子義継を祖とする。南北朝時代,室町幕府の奥州探題として陸奥に下る。のち関東公方に仕え,武蔵世田谷に移った。次いで小田原北条氏に属して,武蔵国久良岐郡蒔田に移り,江戸幕府に仕えてのち蒔田氏を称した。 (3) 土佐吉良氏 平治の乱で土佐に流された源頼朝の弟希義を祖とする豪族。土佐国吾川郡吉良荘を領し,氏名とする。戦国時代に長宗我部元親に滅ぼされた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「吉良氏」の解説

吉良氏
きらし

清和源氏。足利氏の庶流。鎌倉中期頃,三河守護足利義康の孫義氏が三河国吉良荘を与えられ,吉良氏を称した。義氏の長男長氏(ながうじ)は西条,三男義継は東条に住したが,義継の子経氏は奥州に移住,奥州吉良(世田谷吉良)氏の流となる。長氏の孫貞義とその子満義は足利幕府の開創に協力した。満義の嫡子満貞が嫡流西条吉良氏を,弟尊義(たかよし)は東条に住み東条吉良氏をなし,両者は抗争を重ねた。応仁の乱頃,東条吉良氏は細川氏の守護代となるが,文明年中に没落。西条吉良氏は三河一向一揆に味方して近江国へ敗走後に断絶。東条吉良氏はのち復活し,徳川氏に仕えて儀式典礼をつかさどり,高家(こうけ)に列せられるが,赤穂事件で本家が断絶,分家の旗本東条氏が吉良姓を継いだ。

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世界大百科事典(旧版)内の吉良氏の言及

【幕府】より

…徳川氏が清和源氏で,足利氏に対立した新田氏の支流だと称したのも,武家統合の官職である征夷大将軍に就任することを望んだためである。それゆえ徳川氏は,室町幕府の例にならって殿中の儀礼を定め,足利将軍に近侍していた吉良氏,伊勢氏らを用いて儀式典礼をつかさどらせた。源頼朝から徳川氏まで,鎌倉幕府から江戸幕府までを一貫して幕府政治,武家政治としてとらえる考え方もこの時代に生まれてきた。…

【春野[町]】より

…仁淀川河口東岸に位置し,東は高知市,西は土佐市に接し,南は土佐湾に面する。北に吉良ヶ峰(きらがみね)(249m)を負い,南に弘岡平野が開ける弘岡上に,戦国期土佐七雄の一人に数えられた吉良氏の居城吉良城(弘岡城)があった。吉良氏は周防山口から南村梅軒を迎えてその講学を聴いたといい,南学(海南朱子学)発祥の地と伝えられる。…

※「吉良氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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