朝日日本歴史人物事典 「名越時章」の解説
名越時章
生年:建保3(1215)
鎌倉時代中期の武将。名越朝時の子。母は大友能直の娘。大炊助,式部少丞,式部大丞などに任じ,暦仁1(1238)年に叙爵。寛元3(1245)年から翌4年まで尾張守。同年5月,兄光時は前将軍藤原頼経を奉じ執権北条時頼追討を策して失敗するが,このとき時章は異心なき旨を時頼に誓い処罰をまぬがれた。宝治1(1247)年評定衆,建長3(1251)年三番引付頭人となる。またこの間,筑後,大隅,肥後の守護に任じた。弘長3(1263)年,時頼の死により出家し尾張入道見西と称す。この後も一番引付頭人などを務めたが,文永9(1272)年2月,執権北条時宗が庶兄時輔を追討したさいに,弟教時が時輔与党であったためあやまって鎌倉で殺された。時章の容疑はこのあとすぐにはれ,大蔵頼季ら5人の討手は誅された。
(本郷和人)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報