北条時輔(読み)ほうじょう ときすけ

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北条時輔」の解説

北条時輔 ほうじょう-ときすけ

1248-1272 鎌倉時代の武将
宝治(ほうじ)2年5月28日生まれ。北条時頼の子。文永元年六波羅(ろくはら)探題南方となる。異母弟時宗が執権をついだのを不満とし,蒙古・高麗使者との交渉でも時宗と対立。9年時宗の命をうけた六波羅探題北方の赤橋(北条)義宗に攻められ,2月15日京都で戦死。25歳。吉野にのがれたともいう。幼名は宝寿丸。通称は相模三郎時利。

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367日誕生日大事典 「北条時輔」の解説

北条時輔 (ほうじょうときすけ)

生年月日:1248年5月28日
鎌倉時代前期の六波羅探題
1272年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の北条時輔の言及

【二月騒動】より

…1272年(文永9)2月におこった北条一族の内紛。北条時頼の庶子時輔(ときすけ)は六波羅探題南方として京都にいたが,異母弟の時宗が得宗・執権となって幕府の権力の座についたことに不満をもち,謀反を企てた。これを察知した時宗は機先を制して,時輔の与党とみられた名越時章・教時兄弟を鎌倉で討ち,さらに六波羅探題北方の北条義宗に命じて時輔を討たせた。しかし事件後,時章は謀反計画に無関係であったことが判明し,その討伐は誤りであったとして討手は処刑され,時章の子公時は所領を安堵された。…

※「北条時輔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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