ほうじょう ホウデウ【北条】
[一] 愛媛県
松山市北部の
地名。旧市名。
斎灘(いつきなだ)に面する。
紡績・繊維
工場があり、鹿峰
(かのみね)には
江戸時代からの瓦
(かわら)工場が並ぶ。昭和三三年(
一九五八)
市制。平成一七年(
二〇〇五)
松山市に
編入された。
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デジタル大辞泉
「北条」の意味・読み・例文・類語
ほうじょう〔ホウデウ〕【北条】
愛媛県北部にあった市。高縄山がある。鹿峰瓦の産地。平成17年(2005)1月に中島町とともに松山市に編入。→松山
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北条
ほうじよう
鎌倉幕府の樹立・維持に力を尽した北条氏の名字の地。治承四年(一一八〇)四月二七日、平家追討を命じた以仁王の令旨が「伊豆国北条館」にいた源頼朝のもとに届いた(吾妻鏡)。この頃、頼朝は北条時政の居館である北条館におり、居館は現寺家の守山北麓にあったとされ、北条氏邸跡として国の史跡に指定されている。以後、頼朝旗揚げに至るまでの「吾妻鏡」にみえる北条はこれをさしている。同書治承四年八月一九日条に、土肥(現神奈川県湯河原町)辺りから「北条」へは走湯山(伊豆山神社)を往還路とすると記される。文治五年(一一八九)六月六日、時政は北条内で願成就院の立柱上棟供養を行ったが、田方郡内のその場所は「南条・北条・上条・中条」が境を並べる地であった(同書)。建久四年(一一九三)頼朝の弟範頼が北条で誅殺されている(尊卑分脈)。北条泰時は建仁元年(一二〇一)一〇月六日に北条に赴き、損亡に苦しむ当地の農民の負債を破棄した。のち北条時政・牧の方による平賀朝雅擁立の陰謀が発覚し、元久二年(一二〇五)閏七月二〇日北条義時らが父時政を「北条郡」に引退させた(以上「吾妻鏡」)。
北条
きたじよう
大井庄北半の称で、現甲西町戸田を含む一帯に比定される。天正一〇年(一五八二)一一月九日、原半左衛門尉は「北条之内浮分三貫文」など計九貫八〇〇文を本領であるとの申請にもとづいて安堵されている(「徳川家印判状写」御庫本古文書纂)。同月二〇日青沼助兵衛が「北条之内定納八拾貫文・同夫壱人」を含めた本領を認められた(「徳川家印判状写」譜牒余録)。一二月九日には筒井勘右衛門が北条内八〇〇文を含む本給五貫六〇〇文の地を安堵された(「徳川家印判状写」御庫本古文書纂)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
北条
ほうじょう
愛媛県北部,高縄半島西岸,斎灘に臨む旧市域。高縄山一帯と風早平野を占める。 1958年市制。 2005年松山市に編入。北条港は特産品の鹿峰 (かのみね) 瓦や農産物の積出港。中心地の北条には,1937年以降立岩川左岸を中心に紡績工場が立地し,織布・染色工業が行なわれる。農村部は第2次世界大戦前にはナシの生産が多かったが,現在はミカンの栽培が行なわれる。沖合い 400mにある鹿島は周囲 2kmの島で鹿島温泉があり,周辺の島々とともに瀬戸内海国立公園に属する。鯛飯が名物。海賊の昔を偲ばせる櫂練りの踊りなどで知られる。腰折山のエヒメアヤメの自生南限地帯は国の天然記念物。高縄山は奥道後玉川県立自然公園に属する。
北条
ほうじょう
鳥取県中部,北栄町東部の旧町域。天神川下流西岸にある。日本海に臨む。 1954年下北条村と中北条村が合体して町制。 2005年大栄町と合体して北栄町となる。海岸部の北条砂丘と後背低地からなる。古墳群や条里制遺構など上古の遺跡が多く残っており,名称も「北の条理」に由来。砂丘地帯では畑地灌漑施設の完成によりタバコ,ラッキョウ,ブドウ,ナガイモの栽培が行なわれる。国道9号線沿いにメリヤス,缶詰などの中小工場が進出している。国坂は洋画家前田寛治の生地。
北条
ほうじょう
兵庫県南部,加西市の中心市街地。旧町名。 1967年2町との合体により加西市となる。古くから播磨と但馬,丹波,京都方面を結ぶ交通の要地で,宿場町,物資の集散地,播州先染織の産地として知られた。第2次世界大戦中の電機工場の進出や,74年の中国縦貫自動車道の開通で産業都市への変容が著しい。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
世界大百科事典内の北条の言及
【奥山荘】より
…地頭支配の強化は荘園領主支配と対立するようになり,1240年(仁治1)には領家と地頭時茂との間に和与が成立し,年貢米100石,御服綿10両(代銭納の場合は60貫文余)を地頭が納めることで地頭請所となった。77年(建治3)地頭時茂は孫3人に奥山荘を北条(きたじよう),中条(なかじよう),南条に3分して与え,それぞれが惣領を立てることになった。以後奥山荘の三浦和田一族は典型的な惣領制を展開しながら荘内の支配にあたったが,しばしば一族間に係争を生じ,訴訟をくりかえした。…
【筑波】より
…古くから開けた地で古代の条里制の遺構が残り,水守(みもり)は平将門の乱で反将門軍の拠点となった。北条付近の多気(たけ)には平安時代に大掾(だいじよう)氏が拠ったが,鎌倉初期に小田氏に追い落とされた。小田氏が築いた小田城では南北朝期に北畠親房が《神皇正統記》を著している。…
※「北条」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報